倭寇海自的四代极地观测船

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有钱就是好:$
5003艦歴

発注: 2005年
起工: 2007年3月15日
進水: 2008年4月(予定)
就役: 2009年5月(予定)
従事隊次: 第51次~(予定)
性能諸元
排水量: 基準 約12,500トン
全長: 138m、水線間長 126m
全幅: 28m
吃水: 9.2m
機関: 電気推進(PWMインバータ方式)、
2軸推進、30,000PS
最大速: 19.5ノット
砕氷能力: 1.5m(3kt時)
乗員: 179名
隊員: 80名
輸送物資: 約1,100t
艦載機: CH101×2機、AS355級×1機
YY的另一种载机
概要
日本においては、文部科学省?国立極地研究所などが中心となり、1956年(昭和31年)より南極観測を行っている。1982年(昭和57年)からは海上自衛隊が運用する「しらせ」を用いて、南極への南極地域観測隊?物資の輸送や観測を行ってきた。

しらせは20年以上運用され、その老朽化に伴い後継艦が必要とされるようになった。2002年(平成14年)に文部科学省が予算請求を行ったが、折衝により計上されず、2003年(平成15年)にも再度予算請求したが、財務省原案に盛り込まれなかった。その後、復活折衝によって艦体設計予算(5億円)、搭載ヘリコプター製造費初年度分(26億円)の予算計上が認められ、2007年(平成19年)にユニバーサル造船舞鶴事業所で起工、2009年(平成21年)に竣工の予定である。

排水量は当初「20,000t」を予定していたが、予算問題の関係から、「しらせ(初代)」とほぼ同じに縮小されて「12,500t」となった。

砕氷能力を向上させた独特の曲面形状の艦首や、砕氷補助設備として船首散水装置など改良された砕氷設備を持ち、搭載機も更新されて大型のCH-101ヘリコプターを2機搭載する予定である。最新の観測船であるので、貨物積降時間の短縮を図ったコンテナ方式の荷役システム、砕氷力の向上と船体塗装剥離による海洋汚染の防止を目的とした喫水付近のステンレス外装、新型ヒーリング(横揺れ防止)装置といった新機能を持ち、艦内設備も、南極の環境保全のために廃棄物処理用の設備が充実される予定となっており、南極観測基地からの廃棄物持ち帰りにも期待が持たれている。
なお、予算問題により建造が遅れたため、しらせの退役と本艦の就役までの間に1年の間隔が空くことが見込まれている。そのため、2008年(平成20年)の50次観測隊は、文部科学省がオーストラリアから民間砕氷船オーロラ?オーストラリスをチャーターし、南極に送り込む予定である。

[編集] 艦名
艦名は先代「しらせ」同様に一般公募され、南極ゆかりの地名(観測基地名もしくは日本語による地名)が有力視されていた(公募での第一位は大和雪原に因む「ゆきはら」だった)が、白瀬矗中尉の出身地である秋田県にかほ市から「しらせ」の艦名を望む投書が多数届いたことから、政府の南極地域観測統合推進本部は現地の声に応えるとして命名基準を変更(海上自衛隊で現在つけられている艦艇名は採用できないとしていた)。平成19年11月13日、先代と同じく「しらせ」に決定した。なお、引退後の先代「しらせ」の船体が保存される見通しは立っていない。



第四代新图:
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07年11月第四代建造图:
不错!:victory:
07年12月第四代建造图:
08年1月第四代建造图:
08年2月第四代建造图:
虽然是电力推进,但没有采用吊舱方式:


第三代极地观测船:
http://bbs.cjdby.net/viewthread.php?tid=478113&extra=page%3D1
日本第三代南极考察船

第三代极地观测船:
http://bbs.cjdby.net/viewthread.php?tid=478113&extra=page%3D1
日本第三代南极考察船
前三代极地观测船「宗谷」、5001、5002:
第二代极地观测船 5001 艦歴

発注:  
起工: 1964年8月28日
進水: 1965年3月18日
就役: 1965年7月15日
退役: 1984年4月11日
その後: 記念艦として公開
性能諸元
排水量: 基準:5,250t
全長: 100.0m
全幅: 22.0m
吃水:  
機関: ディーゼル電気推進二軸、12,000馬力
最大速: 16kt
航続距離:  
乗員: 200名(他に観測隊員35名)
航空機: ヘリコプター3機搭載
建造 日本鋼管
第二代极地观测船 5001
第二代极地观测船 5001
第二代极地观测船 5001
第二代极地观测船 5001
好船啊~~~~:b :b
要不是TG趁乱买了雪龙船体,还真的几十年都不如他们啊!
好船
雪龙可能不及他
第一代南極観測船「宗谷」
全長    83.3m
全幅    15.8m
総トン数  4,100GT
速力    13.5kt
機関    ディーゼル機関2基×1軸
砕氷能力  1m
搭載機   ヘリコプター2機
       (初期:ベル47G型)
       (最終:シコルスキーS-58型)


南極観測船「宗谷」第3次観測時【諸元】

総トン数:2722.4tt
全長:83.7m
全幅:12.8m(バルジ含15.8m)
速度:12.5kt
機関:ディーゼル機関2基、2軸
出力:2400馬力
航続距離:11ktで16400浬
搭載機:ベル47G2ヘリコプター 2機、シコルスキーS-58型ヘリコプター 2機、DHC-2ビーバー 1機
砕氷能力:1m
乗組員:92名、観測員:37名
第一代南極観測船还有水机一架!
「宗谷」命名の由来
北海道北部の宗谷岬と樺太の間にある宗谷海峡にちなんで名づけられた。


[編集] 歴史
1936年(昭和11年)10月31日 ソビエト連邦からの発注で耐氷型貨物船として川南工業株式会社香焼島造船所にて起工。1938年(昭和13年)2月16日 ソ連船ボロチャエベツとして進水。しかし、第二次世界大戦直前の情勢に鑑み、ソ連への引渡はなされず商船地領丸として竣工。

1940年(昭和15年)6月4日 ソ連向けに建造された耐氷能力と当時としては珍しい最新鋭のイギリス製水深探知機(ソナー)が装備されていた民間貨物船だった為、時勢を睨み測量業務が出来、尚且つ大量量輸送能力を持つ船を捜していた日本海軍が地領丸を所有していた民間会社より買取りを行った後に宗谷と改名、石川島造船所にて改装を行う。

特務艦(運送艦)として横須賀鎮守府部隊付属となる。その後、大戦中は第4艦隊、第8艦隊、連合艦隊付属と所属は変わった。

戦局の推移によって北洋のみならず南洋へも進出し任務につく。アメリカ潜水艦から発射された魚雷が右舷後方に命中するものの幸運にも不発弾であったため難を逃れる。トラック島空襲では奇跡的に脱出に成功する。ミッドウェー海戦にも動員された。南方戦線では、ガダルカナル島撤退に活躍する。終戦時は北海道?室蘭港に所在。

終戦後、主に小樽 - 樺太間を往復し引揚者を次々と本土へと運んだ。その後、海上保安庁の灯台補給船となる。

1956年(昭和31年)11月8日 日本は国際地球観測年に伴い南極観測を行うこととなり、その耐氷構造と船運の強さを買われ、南極観測船に選定される。大幅な船体補強と耐氷能力の向上を主眼とした大改装を日本鋼管浅野船渠で受け、初代南極観測船として、東京水産大学(現東京海洋大学)の海鷹丸を随伴船に従え南極に向け出港。1957年(昭和32年)1月29日 南緯69度00分22秒?東経39度35分24秒オングル島プリンスハラルド海岸に第1次南極地域観測隊が昭和基地を開設。帰路に厚い氷に閉じ込められたが、当時最新鋭艦だったソ連の砕氷艦「オビ」の救援により辛くも脱出に成功。砕氷して進む「オビ」号が、後ろをついて進む宗谷が離されないように注意しなければならないほどの性能差であったという。その後も宗谷は1958年にアメリカの砕氷艦「バートン?アイランド」号、1960年に「オビ」号の救援を再び受けている。宗谷はその後派遣回数と同じ回数の修理?改装を繰り返し、通算6回の南極観測任務を遂行した。

1962年(昭和37年) 南極観測任務を後継の砕氷艦「ふじ」に譲り、再び通常任務に復帰する。北海道に配備される。

1970年(昭和45年)3月 19隻の漁船が吹雪と流氷のために遭難し、宗谷が救出に向かう。悪天候の中、無事救出成功。

1978年(昭和53年)10月2日 退役。生涯で通算1000名以上の命を救った。

2007年(平成19年)現在、東京?お台場にある船の科学館で一般公開されている。

宗谷は誕生からすでに70年が経過しており、長年の酷使や退役後の繋留に伴う経年劣化により船体が傷んでいるため、維持管理には多額の資金が必要とされ、募金活動が行われている。


要目(1944年)
基準排水量:3,800t
全長:77.5m
全幅:12.8m
速度:12kt
機関:ボイラー2缶/蒸気機関1基、1軸
出力:1,597馬力
航続距離:8.5ktで4,080浬
兵装:40口径8cm単装高角砲1基、九六式25mm機銃2挺、爆雷10発

[編集] 要目(1978年)
総トン数:4,100t
全長:83.3m
全幅:15.8m(バルジ含む)
速度:13.5kt
機関:ディーゼル機関2基、2軸
出力:4,800馬力
航続距離:12.5ktで15,000浬
搭載機:シコルスキーS-58型ヘリコプター 2機(露天繋留)
砕氷能力:1m
貨物積載量:500t(観測用物資、初期値450tから増量)
※当初、搭載機は小型のベル47G型であったためヘリ甲板前方に格納庫を有していた。搭載機を大型のシコルスキーS-58型に変更後は、格納庫の容量が不足したため第3次改装の際に格納庫を撤去してヘリ甲板を拡大、露天繋留による暴露積載とした。
[編集] その他
NHKの番組「プロジェクトX」(『運命の船?宗谷発進』 2001年2月13日)に於いて宗谷の活躍が放映された。
本船の生涯は1984年にテレビ東京で放映された「宗谷物語」でアニメ化された。
現存する数少ない帝国海軍艦艇である。
現在でも船籍を有しており、船舶法の適用対象である(必要であれば舫を解いて動かせる)。
代替船として1978年にヘリコプター搭載型巡視船「そうや」(船番号:PLH01、現役)が建造された。
当初南極観測船候補には国鉄の宗谷丸も選ばれており、砕氷能力は宗谷丸のほうが勝っていたが、改造予算の問題で宗谷が選ばれた。



= 「宗谷」の誕生 =
 「宗谷」は当初から南極観測を目的とした船として建造されたわけではなかった。「宗谷」は1937年にソビエト連邦からの発注で,耐氷型貨物船「ボロチャエベツ」として進水した。しかし,国際情勢が不安定であったためにソ連へ引き渡されることなく,一般商船「地領丸」として就航した。
 1940年,海軍はこの船の持つ耐氷能力に注目し,特務艦(運送艦)「宗谷」として徴傭された。「宗谷」は戦局の推移によって様々な海域に配備され,軍需物資の輸送に従事した。アメリカの潜水艦から雷撃を受けたこともあったが,不発弾であったため沈没を逃れ,北海道の室蘭港にて終戦を迎えた。
 終戦後は樺太からの引揚者を本土に運ぶ業務に携わっていたが,その後,海上保安庁に所属を変え,灯台補給業務に従事した。

= 国際的な南極観測 =
 極地における国際的な協力の下で行う気象観測は,1882年にオーストリアハンガリー帝国?デンマーク?フィンランド?フランス?ドイツ?オランダ?ノルウェー?ロシア?スウェーデン?イギリス?カナダ?アメリカの12ヶ国によって始まった(第一回国際極年)。これらの国は北極近辺の14の測候所で,氷?大気?電磁気?地磁気?曙光?海流?潮?構造及び運動の観測を行った。
 当然のことながら,開国して間もない日本は極地方に観測所などなかった。しかし,「日本の科学の発展のために有意義である」というフランスの学者の勧めに従い,この観測期間中に日本全国の地磁気を測量し,側面から協力した。
 第一回国際極年の際に申し合わされた通り,50年後の1932年~1933年に第二回国際極年観測が行われた。今回の観測は気象情報の交換や気象予報を中心とした調査がメインであったため,極地の情報はきわめて少ない結果となった。
 我が国では学術研究会議や航空評議会の問題として取り上げ,大学や研究所なども地磁気や電離層の観測に参加することになった。
 予定では第三回国際極年は1982から実施されることになっていたが,自然科学分野のめざましい発展により,50年後を25年後に短縮し,必要なあらゆる現象を徹底的に観測研究することが提唱された。それに合わせて,国際極年を国際地球観測年と改名し,極地以外の総合的な地球物理学観測に拡張されることとなった。
 国際地球観測年が提案された1951年当時,我が国は敗戦により独立を回復していなかった。これに参加することで,世界に国際的な地位を認めてもらおうと参加の意思を表明した。当初は赤道観測を実施する予定であったが,観測予定地の領有権を持つアメリカの許可が出なかったことと,ノルウェーが国力不足を理由に不参加の意思を表明したことから,1955年2月に南極観測を実施することとなった。
 しかし,出発は1956年11月と定められていたため,準備にかけられる期間が非常に短かった。我が国初の南極観測船は,その耐氷構造と船運の強さを買われ,「宗谷」に白羽の矢が立てられた。急遽,大幅な船体補強と耐氷能力の向上を主眼とした大改装を受け、初代南極観測船として「宗谷」が誕生した。また,研究内容についても,定められた12の全てのテーマについて,入念な準備が行われた。

= 南極上陸 =
 1956年11月8日に日本を出港した「宗谷」は一路南極へと向かった。第一次南極観測隊の目的は,昭和基地の建設であった。南極大陸を囲む氷海を砕氷しながらの航海であったが,しばしば前進を阻まれた。この場合,全速で氷に突進する,あるいはダイナマイトによる発破で亀裂を作るなど力任せの方法や,タンクを注水することにより船体をロールまたはピッチさせる,砕氷船ならではの方法で突破する。
 それでも宗谷は前進することができなくなったため,雪上車による基地建設予定地であるオングル島への接近を試みた。クラック等に前進を阻まれながら,1957年1月29日,ついに東オングル島に上陸し,昭和基地と命名した。
 その帰路にて厚い氷に閉じこめられるアクシデントがあったが,ソ連の砕氷艦「オビ」の救援により無事脱出することに成功した。
 翌1958年,第2次観測隊を乗せた「宗谷」が日本を出港し,一路,昭和基地へと向かったが,深い岩氷に挟まれ,接岸を断念した。基地で越冬していた観測隊員は飛行機とヘリコプターで脱出したが,物資の輸送で活躍していたカラフト犬はその後に回収する予定であったため,そのまま残された。しかし天候は一向に回復しなかったため,結果として,15頭の犬は置き去りにされた。
 1年後,犬たちの生存をほぼ絶望視していた第3次越冬隊が昭和基地に到着すると,犬のうちタロとジロの2頭が昭和基地で生存していたことが話題となった。

= 引退 =
 「宗谷」は1956年から1962年の間,6回にわたる南極観測に従事したが,後継の砕氷艦「ふじ」に南極観測任務を譲り,もとの巡視船としての業務に就航すべく,北海道にて配備された。ここでも,1000名以上の命を救うなどの活躍をした。
 商船として就航しながら,海軍に徴用され,戦後は引揚船,そして南極観測船,巡視船と波乱に満ちた生涯を,1978年,船齢40年で終えた。「宗谷」は国運をかけた場面で常に活躍していた,まことに「強運」を持つ船であった。
倭寇第一代有固定翼水机的南极考察船
倭寇第一代有固定翼水机的南极考察船
倭寇第一代有固定翼水机的南极考察船
雪龙还不是真正的破冰船
找俄兄或烏克蘭友人要個破冰船回來研究吧:D
转 倭軍破冰艦歸國——
转 倭軍破冰艦歸國 等 ——
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倭寇的第四代极地观测船
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AGB-5002
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倭寇的造船还是很不错的说,那个W型的船底剖面很特别
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