每日日语4:[转帖]歪曲历史的新编日本历史教科书 原文及 ...

来源:百度文库 编辑:超级军网 时间:2024/04/30 20:55:23
日本扶桑社 出版的歪曲历史的新编教科书中,存在严重问题的第4章和第5章中和中国相关的问题章节一举公开。

日文原文,以及我和日语版版友的翻译(一部分没有翻译的地方,将稍后翻译)

在本文之前,我希望大家明白几点内容

1.这部歪曲历史的教科书在日本受到大量学者以及历史研究机构的激烈抗议,并严正致信日本文部省,要求对其进行修改,恢复不应该删除的内容,修改歪曲历史的内容。

2.该教科书在日本学校使用率不足1%,日本的学校可以自由的选择使用的教材,而不是国家强制统一。

3.该歪曲历史的教科书,在日本国内遭到广大民众,教师组织,甚至原日本军人组织的严重抗议。

  反对使用歪曲历史教科书的日本各种组织声明


  4. 歪曲历史的教科书资料来自 日本右翼的[新编会] http://www.tsukurukai.com/05_rekisi_text/rekisitext_index.html#

  5. 通读教科书内容,里面删除了慰安妇问题,南京大屠杀也是一笔带过,通篇把日本放在受害者的地位中,粉饰日本的侵略行为,歪曲史实,利用暧昧的表现说明历史。

[此贴子已经被作者于2005-4-7 9:56:18编辑过]
日本扶桑社 出版的歪曲历史的新编教科书中,存在严重问题的第4章和第5章中和中国相关的问题章节一举公开。

日文原文,以及我和日语版版友的翻译(一部分没有翻译的地方,将稍后翻译)

在本文之前,我希望大家明白几点内容

1.这部歪曲历史的教科书在日本受到大量学者以及历史研究机构的激烈抗议,并严正致信日本文部省,要求对其进行修改,恢复不应该删除的内容,修改歪曲历史的内容。

2.该教科书在日本学校使用率不足1%,日本的学校可以自由的选择使用的教材,而不是国家强制统一。

3.该歪曲历史的教科书,在日本国内遭到广大民众,教师组织,甚至原日本军人组织的严重抗议。

  反对使用歪曲历史教科书的日本各种组织声明


  4. 歪曲历史的教科书资料来自 日本右翼的[新编会] http://www.tsukurukai.com/05_rekisi_text/rekisitext_index.html#

  5. 通读教科书内容,里面删除了慰安妇问题,南京大屠杀也是一笔带过,通篇把日本放在受害者的地位中,粉饰日本的侵略行为,歪曲史实,利用暧昧的表现说明历史。

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歪曲历史的新编日本历史教科书


第4章 近代日本の進出>1.欧米の進出と幕府の危機>41
欧米列強のアジア進出/p170
  


二つの革命の明と暗

産業革命と市民革命は,欧米の社会に個人の自由を広げ,物質的な富をもたらした。しかし,自由の拡大は人々の欲望を高め,工業社会の成功は,階級の対立や貧困というわざわいを引きおこした。
欧米諸国は,急速な近代化にともなう国内の問題点を自国の外で解消するために,安い原料の確保や自国の商品を売る市場を求めて,アジアやアフリカの植民地獲得にはげんだ。産業革命と市民革命は,西洋の近代化をおし進める原動力となったが,一方で,経済的拡張や領土拡大への野望をかきたてる要因ともなったのである。こうして欧米諸国は,「列強」という世界の強国の道を歩み始めた。

翻译者 shou_yi(收益)

产业革命和市民革命,给欧美社会扩大个人的自由,带来了物质财富。但是,自由的扩大提高了人们的欲望,工业社会的成功,引起了阶级的对立和贫困灾难。
欧美各国,为在本国之外解决因急速近代化所带来的国内问题,确保廉价的原材料,寻求贩卖自国产品的市场,极力获取在亚洲,非洲的殖民地。产业革命和市民革命推进了西洋的近代化,同时也成了刺激经济扩张,领土扩大的欲望。这样一来,欧美各国,开始走上了[列强]之世界强国之路。


軍事力の格差

植民地獲得を目指す西洋の軍事力は,東アジア諸国を圧倒していた。西洋と東洋で軍事力の格差が生じた背景には,両地域が歩んできた歴史の違いがあった。
かつて,織田信長や豊臣秀吉が活躍した16世紀の日本や,清(しん)が明(みん)にかわって王朝を立てた17世紀の中国では,国内の戦争がさかんで,軍事技術は長足の進歩を遂げていた。
しかし,ひとたび平和が回復されると,日本と中国の両国では,ともに銃砲火器への関心がうすれ,軍事技術の開発に格別の注意が払われなくなった。東アジアにはその後,約250年間,のどかで平和な時代が続いた。
この間,西洋諸国は,ひたすら軍事力の強化に努めた。およそ16~18世紀は,西洋における驚異的な軍事力発展の3世紀として知られる。かつて,モンゴルの騎馬軍団は,馬を走らせて草原を征服し続けたが,16世紀以後の西洋人は,軍艦から大砲を撃って,植民地を征服し続けた。それでも,東アジアに危険がすぐにおよぶことはなかった。

军事力量的差距 翻译者 Ryu

以殖民地的获得为目标的西洋军事力量压制了东亚的诸国。产生西洋和东洋的军事力量差距的背景是因为两个地域历史的不同。
织田信长,丰臣秀吉等活跃的16世纪的日本,在17世纪经过明清的中国等,因国内内战纷起,军事技术也达到了高度的发展。
恢复和平之后,中国和日本两国都失去了对枪炮火器的重视,更没有特别重视军事技术的开发。东亚在此后持续了约250年间的和平时代。
在此期间,西洋诸国,努力的发展军事力量。大约是16-18世纪,可谓西洋军事力量惊异发展的3个世纪。过去蒙古的骑兵,策马征服草原,16世纪后的西洋人,利用军舰火炮的攻击,征服殖民地。尽管如此,东亚依然没有立刻陷入危机。
欧米の植民地進出

イギリスやフランスは,植民地獲得のための争奪戦を,まずインドやカナダでくり広げ,19世紀に入って,ついに東アジアに迫ってきた。平和を維持していた中国や日本は,突然に西洋の強大な軍事力に直面することになった。これら欧米列強(世界の強国) は,1800年に地球の陸地の35%を支配するにいたり,1914年の第一次世界大戦が始まったころには,84%にまで支配地を拡大した。日本の明治維新は,その二つの年代の中間に当たる時期におきた出来事となる。


欧美殖民地的发展 翻译者 Ryu
英国,法国等为了获得殖民的展开的争夺战争,从印度和加拿大等国家扩大,进入19世纪,终于逼迫到了东亚地区。保持和平的中国和日本,突然间面对了西洋强大的军事力量。这些欧美列强在1800年,支配了地球上陆地的35%,到1914年第一次世界大战开始的时候,已经将支配地扩大到了84%。日本的明治维新,就是在这两个时代中间所发生的。



  第4章 近代日本の進出>1.欧米の進出と幕府の危機>42
アヘン戦争の衝撃/p172
  


アヘン戦争と英国の中国分割

18世紀前後のころより,ヨーロッパでは紅茶が広まり,イギリスが清から輸入する茶は,生活必需品となった。当時,茶の有力な産地は中国であったが,イギリスはこれを買い取る適当な見返りの輸出品をもたなかった。そこで,メキシコやスペインから買い入れた銀で,茶の葉を購入した。これによって清の国内では,しだいに銀がだぶつくようになった。
やがて,とんでもない輸入品が中国の市場にあらわれた。もっとも代表的な麻薬といわれるアヘン(阿片)である。
イギリスはインドを植民地として,インド人にアヘンをつくらせ,これを清との貿易の代価として利用した。イギリスは自国では決して輸入を許していないアヘンを清に売りつけることで,銀の一方的流出に悩む不均衡な貿易収支を正すと同時に,イギリスのインド支配の財政基盤も支えるという,一挙両得の政策に出たのである。
アヘンは,衰退期に入った清に,無抵抗に受け入れられた。当時,腐敗していた清の官僚は,輸入禁止という対抗策も打ち出せず,たちまち清からの見返りの輸出は茶の葉だけでは足りなくなり,だぶついた銀をあてねばならなくなった。銀が流出していくために,清は経済危機におそわれた。
清の道光帝<どうこうてい>はアヘンの販売,吸飲のいずれにも死罪をもってのぞむ厳禁政策を決定した。皇帝の命を受けた清の大臣,林則徐 <りんそくじょ>は,イギリス人貿易商から手持ちのアヘン約1300トン(2万3000箱)を没収し,大きな穴を掘って,海水と石灰石を混ぜてそこにアヘンを投入し,化学処理をして廃棄した。
すると,イギリスの軍艦は,「自由貿易」を口実に清国沿岸に発砲し,1840年,アヘン戦争が始まった。戦争は2年余りも続き,圧倒的な力をもつイギリスの海軍が海上を封鎖して,1842年,清は屈辱的な南京条約に調印した。
イギリスは香港島を占領し,中国大陸へ進出する足がかりを得た。

日本と中国・朝鮮の反応

清がイギリスに敗れ,香港を割譲し開国したという情報は,「オランダ風説書 <ふうせつがき>」をとおしてわが国にただちに知らされ,幕末の指導者や知識層に深い衝撃を与えた。しかし,朝鮮では危機意識がうすく,9か月もたってから,報告書が提出された。その内容も簡単なものだったので,指導者層も国際情勢の急変に気がつかなかった。戦争に敗れた当の中国人自身も,日本人を驚かせたほどの衝撃は受けなかった。
中国は古代から何度も異民族に侵入されて,その支配を受けることも多かった。しかし,支配する
異民族を逆に自国の文明の中に取り込み,同化させてしまう傾向が強かった。
現に,清は満州人の支配する国である。中国人は異民族に支配されることに慣れ,支配されても自分は変わらないという自信をもっていた。欧米列強の進出という,今度ばかりは問題の質が少し違う重大事にあっても,彼らは同じ姿勢を崩そうとはしなかった。
さらに,中国の儒教の教えでは,皇帝が人民を徳で治めるのが正しい統治であるとする徳治主義の考えが強く,武力の卓越を尊ぶのは野蛮であるとみなされがちであった。実際には武力を用いて物事に当たることも多かったが,文官が優位を占める官僚中心のこの国では,建前としては,武官が尊重されなかった。そのため,イギリスに戦争で敗北しても,徳ではなく,武力に敗北したにすぎないと考え,自国の文明に対する自信はゆるがなかった。
そのうちに,欧米列強の圧力はさらに強まったので,清は西洋の軍事技術を取り入れざるをえなくなった。しかし政治,社会のあり方や,文明そのものを見直そうという考え方はまだ,おこらなかった。
見直しが必要だと清が思うようになるのは,のちに日清 <にっしん>戦争で日本に敗れてからである。清は近代国家の建設の仕方を学ぼうとして,大量の留学生を日本に送ってきた。古代の遣唐使とは逆のうん動が始まったのである。

第4章 近代日本の進出>1.欧米の進出と幕府の危機>45
近代日本が置かれた立場/p184
  
近代日本史の前提

これから 明治維新<めいじいしん>に始まる近代の日本史を学ぶに当たって,次の三つの前提を,考慮に入れておきたい。
第一に,欧米列強の植民地支配圏の拡大は,明治維新のあともずっと続いていた。日本が独立を維持して,大国の仲間入りを果たすまでの歴史は,列強の進出と同時進行でおこったことだった。北には,不凍港を求めて南下してくる,最大の脅威ロシアがあった。明治の日本人はどんなにか心細かったであろう。
第二に,このような国際情勢の中で,中国(清)は,アヘン戦争でみたように,欧米列強の武力脅威を十分に認識できていなかった。中国の強い政治的影響下にあった朝鮮も同様だった。中国人はむかしから,自国の文明を世界の中心と考える中華思想をもっていた。イギリスなどを,世界の果ての野蛮な民族であるとみなしていて,西洋文明に対し,敬意も関心もいだかない傾向があった。この結果,清はしだいに列強に侵食され,領土の保全もあやうくなった。
第三に,日本は江戸時代を通じて武家社会という側面があり,列強の武力脅威に敏感に反応し,西洋文明に学ぶ姿勢へと政策を転じたが,中国・朝鮮両国は文官が支配する国家だったので,列強の脅威に対し,十分な対応ができなかったという考え方もある。


第4章 近代日本の進出>3.立憲国家の門出>52
日清戦争と中華秩序の崩壊/p216
  


朝鮮半島と日本の安全保障

東アジアの地図を見てみよう。日本はユーラシア大陸から少し離れて,海に浮かぶ島国である。この日本に向けて,大陸から一本の腕のように朝鮮半島が突き出ている。当時,朝鮮半島が日本に敵対的な大国の支配下に入れば,日本を攻撃する格好の基地となり,後背地をもたない島国の日本は,自国の防衛が困難となると考えられていた。
このころ,朝鮮に宗主権をもっていたのは清朝だったが,それ以上におそろしい大国は,不凍港を求めて東アジアに目を向け始めたロシアだった。ロシアは1891年にシベリア鉄道の建設に着手し,その脅威はさし迫っていた。日本政府の中には,ロシアの力が朝鮮におよぶ前に,朝鮮を中立国とする条約を各国に結ばせ,中立の保障のため日本の軍備を増強しなければならないという考えもあった。

翻译者 binqifengkuang(绝世医术)

朝鲜半岛和日本的安全保障

请看东亚洲的地图,日本是一个和欧亚大陆略微分离,浮在海上的一个岛国。日本就象大陆向朝鲜半岛伸出一只手臂,当时,朝鲜半岛如加入和日本敌对的大国麾下,将会成为对日本攻击的极好的基地,对于没有退路的日本而言,本国国土防御困难的情况是可以考虑到的。
  那时,朝鲜是清政府的臣国,比清政府还庞大的势力是俄国,他们为了寻求不冻港(ice-free port)开始将目光转向东亚。俄国在1891年开始着手建设西伯利亚铁道,这种危机渐渐迫近了,在当时的日本政府中有着,在俄国势力还没有支配朝鲜之前,让朝鲜和各国签署中立国条约,为了保持中立,日本不得不扩充军备的想法。
朝鮮をめぐる日清の対立

一方,清は,東アジアの情勢を別の見方でとらえていた。1879(明治12)年,長い間,清にも朝貢してきた琉球が沖縄県となり,日本の領土に組み込まれたことは,清朝にとって大きな衝撃だった。1884年には,清は清仏戦争に敗れ,もう一つの朝貢国ベトナムがフランスの支配下に入った。朝貢国が次々と消滅していくことは皇帝の徳の衰退を意味し,中華秩序崩壊の危機を示すものだった。そこで清は,最後の有力な朝貢国である朝鮮だけは失うまいとし,日本を仮想敵国(国防計画を立てるさいに,仮に敵とみなす国)とするようになった。
日本は,朝鮮の開国後,その近代化を助けるべく軍制改革を援助した。朝鮮が外国の支配に服さない自衛力のある近代国家になることは,日本の安全にとっても重要だった。ところが,1882年,軍制改革に取り残された一部朝鮮軍人の暴動が発生した( 壬午事変<じんごじへん>)。清はこれにしょうじ,数千の軍隊を派遣してただちに暴動を鎮圧し,日本の影響力を弱めた。1884年には日本の明治維新にならって近代化を進めようとした金玉均らのクーデターがおこったが,このときも清の軍隊は,親日派を徹底的に弾圧した(甲申<うしん>事変)。1886年には,清は購入したばかりの軍艦定遠などからなる北洋艦隊を,親善を名目に長崎に派遣してその軍事力を見せつけ,日本に圧力をかけた。

翻译者 binqifengkuang(绝世医术)  & Ryu


围绕朝鲜问题,日清对立
  另一方面,清政府对于东亚的情况采取了其他的看法,1879(明治12)年,长期向清廷纳贡的硫球改名冲绳县,成为了日本领土的一部分,对于清廷是一个很大的冲击,1984年清法战争中清廷战败,另外一个朝贡国越南归属法国支配,朝贡国的相继消亡说明了皇帝失德,中华的秩序处于别毁坏危机的边缘。对于清廷,无论如何也不能再失去最后的有力的朝贡国朝鲜,而将日本作为了设想敌国(确立国防计划,将对方看成假象的敌人)。
  日本在朝鲜开国后,援助朝鲜建设近代化军备改革,朝鲜成为不受外国势力支配的有自卫能力的国家,对日本的安全有着重要的意义。另外,1882年一部分被裁军人发生暴动(壬午事変),清廷立即派遣了数千军队对暴乱进行了镇压,日本的影响力被削减了。1884年学习日本明治维新,向现代化进发,金玉均等发起了政变。这时的清朝军队中,亲日派被彻底压制,(甲申事変)。1886年,清廷将刚刚由购入的定远舰等所组成的北洋舰队以亲善的名目派往日本长崎港示威,给日本政府施加压力。


日清戦争と日本の勝因

1894(明治27)年,朝鮮の南部に東学の乱(甲午農民戦争)とよばれる農民暴動がおこった。東学党は,西洋のキリスト教(西学)に反対する宗教(東学)を信仰する集団だった。彼らは,外国人と腐敗した役人の追放を目指し,一時は首都漢城<かんじょう>(現在のソウル)に迫る勢いをみせた。わずかな兵力しかもたない朝鮮は,清に鎮圧のための出兵を求めたが,日本も甲申事変後の清との申しあわせに従い,軍隊を派遣し,日清両軍が衝突して日清戦争が始まった。
戦場は朝鮮のほか,南満州などに広がり,陸戦でも海戦でも日本は清に圧勝した。日本の勝因としては,軍隊の訓練,規律,新兵器の装備がまさっていたことがあげられるが,その背景には,日本人が自国のために献身する「国民」になっていたことがある。

翻译者 Ryu
日清战争和日本的胜利原因

1894年(明治27年),朝鲜南部爆发了被称为东学之乱(甲午农民战争)的农民暴动。东学党是信仰东学教,而反西洋基督教(西学)的宗教组织。他们以讨伐外国人和腐败官员为目的,一时间势力直逼首都汉城。兵力微薄的朝鲜向清政府请兵镇压,日本遵循甲申事变后和清政府的协议,派遣了军队,日清两军发生冲突,引发了日清战争。
朝鲜战场以外,战火扩大到南满洲,无论是陆战还是海战,日本都压制胜利了清政府。日本胜利的原因是,可以说是军队训练,纪律和装备了新型武器等的结果,胜利的背景是,日本为国献身的国民意识。



下関条約と三国干渉

1895(明治28)年,日清両国は下関条約を結び,清は朝鮮の独立を認めるとともに,日本政府の財政収入の3倍に当たる賠償金3億円を支払い,遼東半島と台湾などを日本に割譲した。
しかし,日本が簡単に列強と対等になることは許されなかった。東アジアに野心をもつロシアは,ドイツ,フランスを誘って,強力な軍事力を背景に,遼東半島を中国へ返還するよう日本に迫った(三国干渉)。清を破ったとはいえ,独力で三国に対抗する力をもたない日本は,やむをえず,一定額の賠償金と引きかえに遼東半島を手放さねばならなかった。日本は,中国の故事にある「臥薪嘗胆」を合言葉に,官民挙げてロシアに対抗するための国力の充実に努めるようになった。
日清戦争は,欧米流の近代立憲国家として出発した日本と中華帝国との対決だった。「眠れる獅子」とよばれてその底力をおそれられていた清が,世界の予想に反して新興の日本にもろくも敗れ,古代から続いた東アジアの中華秩序は崩壊した。その後,列強諸国は清に群がり,たちまちそれぞれの租借地(他国の領土を借り受けた土地)を獲得し,中国進出の足がかりを築いた。

翻译者 Ryu

下关条约和三国干涉

1895年(明治28年),日清缔结了下关条约,清政府承认朝鲜独立的同时,支付给日本政府相当于财政收入3倍的赔偿金3亿日元,并割让辽东半岛和台湾等给日本。

但是,日本没有简单的获得和列强同等的地位。对于东亚野心勃勃的俄罗斯,唆使德国,法国利用强力的军事力作后盾,逼迫日本将辽东半岛返还中国。尽管清政府撕毁条约,无法单独对抗3国之力的日本不得不靠一定的赔偿金来让中国换回辽东半岛。日本引用中国的故事 卧薪尝胆 作为口号,官民一心为对抗俄罗斯努力增强国力。

日清战争是以欧美风格的近代立宪国家为出发点的日本和中华帝国的较量。和世界上预想相反,被称为 睡狮 而让举世恐惧其实力的清朝,被新兴的日本简单的打败,从古代开始相传的东亚中华秩序就此崩溃。之后列强诸国群聚清朝,迅速的获得了各自的租借地,为进出中国打下了基础。
<第4章 近代日本の進出>3.立憲国家の門出>53
国家の存亡をかけた日露戦争/p220
  



親露か親英か

19世紀末から20世紀のはじめにかけて,日本は弱肉強食の過酷な世界の中にあった。極東の小さな島国である日本の国力では,単独で自国を防衛するのは不可能だった。力のある大国と同盟関係を結ぶ以外に,生き残る方法はなかった。三国干渉のあと,日本は,同盟をロシアと結ぶかイギリスと結ぶかの選択を迫られた。
両国のどちらが日本の独立を確保するのに役立つかを見極めるのは,容易なことではなかった。アヘン戦争の時代をよく知っている伊藤博文らの元老(天皇の政治顧問[こもん]。昭和初期まで存続し,維新の功労者が任命された)は,ロシアと結ぶ親露政策を,小村寿太郎ら外務省幹部や桂太郎首相は,イギリスと結ぶ親英政策を主張した。
両者の論争の焦点は,ロシアについての見方だった。ロシアは,1900年に中国でおこった義和団<ぎわだん>事件を口実に,満州(中国東北部)に2万の兵を送り込み,そのまま居座っていた。ロシアが満州にとどまって朝鮮半島に出てこないようにロシアと話しあいがつくか,ということが最大の争点だった。論争に決着をつけたのは,小村寿太郎が提出した意見書だった。

关系到国家生死存亡的日俄战争  翻译者 shou_yi(收益)

是亲俄还是亲英

从19世纪末到20世纪初,日本生存于弱肉强食残酷的世界中。地处于极东小岛的日本国力,单独保卫本国是不可能的。同强大的国家结盟之外,没有生存的办法。3国干涉之后,
日本面临选择是结盟俄国还是英国。
判断两国的哪方有利于确保日本的独立,不是容易的事情。熟知鸦片战争的伊藤博文等元老(天皇的政治顾问,持续刀昭和初期,被任命为维新的功劳者)主张联合俄国的亲俄政策,小村寿太郎等外务省干部,桂太郎首相则主张联合英国的亲英政策。两者争论的焦点是对俄国的看法上。俄国以1900年中国发生德义和团事件为借口,向满洲(中国东北部)
派兵2万并一直屯住在那里。是否可以劝说俄国停留在满洲而不进入朝鲜半岛,是最大的争论点。结束争论的是,小村寿太郎提出的意见书。



日英同盟締結

小村意見書は,日露条約と日英条約の利害得失を論じ,日英条約が優位であると主張したものであった。
小村意見書は,1901年,政府の方針として採択され,それに基づいて交渉した結果,1902(明治35)年,日英同盟が締結された。当時,ロシアは実際に朝鮮半島に進出する意図をもっていたから,小村の判断は正しかった。日英同盟はこののち20年間,日本の安全と繁栄に大きく役立った。


日英同盟的缔结  翻译者 Ryu
小村意见书的内容 论及了日俄条约和日英条约中的利害得失,主张优先日英条约。
小村意见书被作为政府方针于1901年采用,以次为基础的谈判结果,促使了1902年日英结成同盟。当时俄罗斯实际的意图是染指朝鲜半岛,小村的判断是正确的。日英同盟的20年,为日本的安全和繁荣做出了巨大贡献。



日露開戦と戦いのゆくえ

日俄开战和战争的发展  翻译者Ryu

ロシアは,日本の10倍の国家予算と軍事力をもっていた。ロシアは満州の兵力を増強し,朝鮮北部に軍事基地を建設した。このまま黙視すれば,ロシアの極東における軍事力は日本が到底,太刀打ちできないほど増強されるのは明らかだった。政府は手遅れになることをおそれて,ロシアとの戦争を始める決意を固めた。

俄罗斯拥有超过日本10倍的国家预算和军事实力。俄罗斯增强了满洲的兵力,在朝鲜北部建立了军事基地。如果坐视不管,俄罗斯在远东的军事实力就会增强的让日本无法对抗。政府担心错过时机,毅然决定和俄罗斯展开战争。

1904(明治37)年2月,日本は英米の支持を受け,ロシアとの戦いの火ぶたを切った(日露戦争)。戦場になったのは朝鮮と満州だった。1905年,日本陸軍は苦戦の末,旅順を占領し,奉天(現在の瀋陽[しんよう,シェンヤン])会戦に勝利した。

1904年2月,日本受到英美的支持和俄罗斯开战。朝鲜和满洲变成了战场,1905年,日本陆军苦战的结果,终于占领了旅顺,并在奉天会战中取得了胜利。

ロシアは劣勢をはね返すため,バルト海を根拠地とするバルチック艦隊を派遣することを決めた。約40隻の艦隊は,アフリカの南端を迂回し,インド洋を横切り,8か月をかけて日本海にやってきた。東郷平八郎司令長官率いる日本の連合艦隊は,兵員の高い士気とたくみな戦術でバルチック艦隊を全滅させ,世界の海戦史に残る驚異的な勝利をおさめた(日本海海戦)。

俄罗斯为了挽回劣势,决定派遣以波罗的海为根据地的波罗迪克舰队。大约40只军舰绕过非洲南端,横跨印度洋,费时8个月,来到了日本海。東郷平八郎司令長官率领日本的联合舰队,以高涨的士气和巧妙的战术,将巴罗迪克舰队全部消灭,成为世界海战历史中的经典胜利。

世界を変えた日本の勝利

日本的胜利改变了世界   翻译者 Ryu

日本海海戦に勝利したとき,日本はすでに,外国からの借金と国債でまかなった,国家予算の8年分に当たる軍事費を使い切っていた。長期戦になれば,ロシアとの国力の差があらわれて形勢が逆転するのは明白だった。アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトは,日本にもっとも有利な時期を選んで,日露間の講和を仲介した。アメリカのポーツマスで開かれた講和会議の結果,1905(明治38)年9月,ポーツマス条約が結ばれた。この条約で日本は,韓国(朝鮮)(1897年,朝鮮は国号を大韓帝国と改めた)の支配権をロシアに認めさせ,中国の遼東半島南部(のちに,日本は関東州とよぶ)の租借権を取得し,南満州にロシアが建設した鉄道の権益をゆずり受け,南樺太の領有を確認させた。一方,賠償金を得ることはできなかったので,戦争を続けようにも国力が限界に達しているという事情を知らない国民の一部は,これを不満として暴動をおこした(日比谷焼き打ち事件)。

日本海战胜利的时候,日本已经依靠了外国的贷款和国债,8年的国家预算都被用作军事开支使用一空。深刻明白如果变成持久战,就会出现和俄罗斯国力的差距,而导致形势逆转。美国总统罗斯福挑选了对日本最有利的时机,作为中间人为日俄间讲和。在美国的普斯矛斯举行的讲和会议结果,1905年9月签订了普斯矛斯条约。这个条约上,俄罗斯承认日本的朝鲜支配权,取得中国的辽东半岛南部的租借地权利,获得俄国在南满洲建设的铁路权益,承认南桦太的日本所有。但因为没有获得战争赔款,一部分不明白战争的持续导致国库空虚的国民对此表示不满,并发生了暴动。


日露戦争は,日本の生き残りをかけた壮大な国民戦争だった。日本はこれに勝利して,自国の安全保障を確立した。近代国家として生まれてまもない有色人種の国日本が,当時,世界最大の陸軍大国だった白人帝国ロシアに勝ったことは,世界中の抑圧された民族に,独立への限りない希望を与えた。しかし,他方で,黄色人種が将来,白色人種をおびやかすことを警戒する黄禍<こうか> 論が欧米に広がるきっかけにもなった。

日俄战争是关系到日本生存的伟大国民战争。日本的胜利确立了日本的安全保障。作为有色人种的非近代国家日本战胜了世界上第一的陆军大国白人帝国俄罗斯,给予了世界上被压抑民族争取独立的希望。但是也因此导致了白种人对黄种人的警戒,并散布黄祸的言论。
第5章 世界大戦の時代と日本>1.第一次世界大戦の時代>57
世界列強の仲間入りをした日本/p238
  


勝利の代償

日露戦争(1904~1905年)の勝利の結果,日本は世界列強の仲間入りを果たした。しかし,立場の上昇は,必ずしも有利や安全を意味しない。アメリカは,日本の満州独占を警戒し,日本が手に入れた南満州鉄道の共同経営を求めてきた。また,カリフォルニアでは,日系移民排斥の動きがおこった。日清戦争のころから欧米で唱えられ始めた黄禍論に,再び火がついた。
日本の勝利に勇気づけられたアジアの国には,ナショナリズム(自国を愛し,国益を主張する思想や立場)がおこった。それは,トルコやインドのような遠い国では,単純に日本への尊敬や共感と結びついたが,中国や韓国のような近い国では,自国に勢力を拡大してくる日本への抵抗という形であらわれた。加えて,日本には,大国として他のあらゆる大国と力の均衡の政策を保ち続ける新しい必要が生じた。勝利がもたらした新局面に,当時の日本人が十分に対応することは困難だった。

胜利的代价 翻译者 Ryu
日俄战争(1904-1905)的胜利结果,使日本跻身为世界列强中。但是地位的提高并不意味着有利和安全。美国警戒日本独占的满洲,并要求和日本共同经营日本入手的南满洲铁路。另外,也发生了排斥加利福尼亚日本移民的活动。又点燃了日清战争的时候,欧美就开始叫嚷得黄祸论。
日本的胜利给亚洲国家以勇气,发展了当地的爱国主义。连远离日本的土耳其印度等国家,也表示对日本的尊敬和相知。中国,韩国等接近的国家,壮大了为对抗日益强大的日本而产生的势力。另外,在日本国内,也产生了身为大国则必须和其他大国的力量保持均衡的政策。胜利带来的新局面对于当时的日本来说完全对应相当困难。


韓国併合

日露戦争後,日本は韓国に韓国統監府を置いて支配を強めていった。日本政府は,韓国の併合が,日本の安全と満州の権益を防衛するために必要であると考えた。イギリス,アメリカ,ロシアの3国は,朝鮮半島に影響力を拡大することをたがいに警戒しあっていたので,これに異議を唱えなかった。こうして1910(明治43)年,日本は韓国内の反対を,武力を背景におさえて併合を断行した(韓国併合)。
韓国の国内には,民族の独立を失うことへのはげしい抵抗がおこり,その後も,独立回復のうん動が根強く行われた。
韓国併合のあと,日本は植民地にした朝鮮で鉄道・灌漑の施設を整えるなどの開発を行い,土地調査を開始した。しかし,この土地調査事業によって,それまでの耕作地から追われた農民も少なくなく,また,日本語教育など同化政策が進められたので,朝鮮の人々は日本への反感を強めた。

韩国合并
日俄战争后,日本为了加强对韩国的支配,设置了韩国总监府。日本政府考虑到韩国的横并对于日本的安全,以及满洲利益的防守是有必要的。英美俄三国为了扩大在朝鲜半岛的影响力而互相警戒,因此并没有对此提出反对意见。这样1910年日本以武力支持不顾韩国内的反对实行了合并。
在韩国国内,失去了民族独立而进行了强烈的反抗,此后各种恢复独立的运动也持续发生。
韩国合并后,在成为日本殖民地的朝鲜,实行了灌溉设施的开发和整备,失去土地的农民减少,另外因为实施了日本语言教育等同化政策使得朝鲜的人们对日本的反感加深。
第5章 世界大戦の時代と日本>2.第二次世界大戦の時代>66
日中戦争/p270
  


盧溝橋<ろこうきょう> における日中衝突

関東軍など現地の日本軍は,満州国を維持し,ブロック経済圏を建設するために,隣接する華北地域に蒋介石政権の支配のおよばない親日政権をつくるなどして,中国側との緊張が高まっていた。また,日本は北京周辺に4000人の駐屯軍を配置していた。これは義和団事件のあと,他の列強諸国と同様に中国と結んだ条約に基づくものであった。1937(昭和12)年7月7日夜,北京郊外の盧溝橋で,演習していた日本軍に向けて何者かが発砲する事件がおこった。翌朝には,中国の国民党軍との間で戦闘状態になった(盧溝橋事件)。現地解決がはかられたが,やがて日本側も大規模な派兵を命じ,国民党政府もただちに動員令を発した。以後8年間にわたって日中戦争が継続した。
同年8月,外国の権益が集中する上海で,二人の日本人将兵が射殺される事件がおこり,これをきっかけに日中間の全面戦争が始まった。日本軍は国民党政府の首都南京を落とせば蒋介石は降伏すると考え,12月,南京を占領した(このとき,日本軍によって民しゅうにも多数の死傷者が出た。南京事件)。しかし,蒋介石は重慶に首都を移し,抗戦を続けた。

卢沟桥的日中冲突

关东军等在中国的日本军,为了维持满洲国,建立模块经济圈,在邻近的华北地区建立不受蒋介石支配的亲日政权,造成了跟中国方面的紧张关系。另外,日本在北京附近结集了4000人的驻军。这是依据在义和团事件以后,同其他列强一样,与中国签署的条约。
1937年7月7日晚,在北京郊外的卢沟桥,发生了向正在演习的日本军开枪的事件。
第2天早上,跟中国的国民党军之间发展到战争状态。虽然寻求现地解决,但,日本方面命令大规模派兵,国民党政府也立即发出了动员令。以后,日中战争持续了8年。
同年8月,在外国权益集中的上海,发生了2名日本官兵被枪杀的事件,由此而导致了日中全面战争的开始。日本军以为攻陷国民党政府首都南京,蒋介石就会投降,12月占领了南京(这时,日本军造成了许多一般百姓的死伤。南京事件)。但是,蒋介石移都重庆继续抗战。




悪化する日米関係

1938(昭和13)年,近衛文麿<このえふみまろ>首相は東亜新秩序の建設を声明し,日本・満州・中国を統合した経済圏をつくることを示唆した。これはのちに東南アジアを含めた大東亜共栄圏というスローガンに発展した。
アメリカは,門戸開放,機会均等を唱えて,日本が独自の経済圏をつくることを認めなかった。日中戦争で一応,中立を守っていたアメリカは,近衛声明に強く反発し,中国の蒋介石を公然と支援するようになった。日米戦争にいたる対立は,直接にはここから始まった。
1939年,アメリカはさらに日米通商航海条約を延長しないと通告した。多くの物資をアメリカとの貿易に依存していた日本は,しだいに経済的に苦しくなっていった。日本の陸軍には,北方のロシアの脅威に対処する北進論の考え方が伝統的に強かったが,このころから,東南アジアに進出して資源を獲得しようとする,南進論の考えが強まっていった。しかし,日本が東南アジアに進出すれば,そこに植民地をもつイギリス,アメリカ,オランダ,フランスと衝突するのは必至だった。

恶化的日美关系  翻译者 Ryu
1938(昭和13)年,首相近衛文麿发表了东亚新秩序的声明,唆使日本,满洲,中国形成统一的亚洲经济圈,再加上东南亚地区,发展形成大东亚共荣圈的主张。
美国提倡门户开放,机会均等,而不承认日本单独建立经济圈。在中日战争中保持中立的美国对近衛文麿的主张强烈抗议,并公开支持中国的蒋介石。导致日美战争的对立由此开始。
1939年,美国更是通告日本 不延长 日米通商航海条約 ,多数物资依靠美国贸易的日本,从此陷入经济困境。日本的陆军更是坚定了为对抗北方俄罗斯威胁的北进论想法,这个时候,为<B>进入</B>东南亚获得资源的南进论也加强了。但是日本如果 进入 东南亚,必然会合在那里拥有殖民地的英美荷法发生冲突。
第5章 世界大戦の時代と日本>2.第二次世界大戦の時代>66
日中戦争/p270
  


盧溝橋<ろこうきょう> における日中衝突

関東軍など現地の日本軍は,満州国を維持し,ブロック経済圏を建設するために,隣接する華北地域に蒋介石政権の支配のおよばない親日政権をつくるなどして,中国側との緊張が高まっていた。また,日本は北京周辺に4000人の駐屯軍を配置していた。これは義和団事件のあと,他の列強諸国と同様に中国と結んだ条約に基づくものであった。1937(昭和12)年7月7日夜,北京郊外の盧溝橋で,演習していた日本軍に向けて何者かが発砲する事件がおこった。翌朝には,中国の国民党軍との間で戦闘状態になった(盧溝橋事件)。現地解決がはかられたが,やがて日本側も大規模な派兵を命じ,国民党政府もただちに動員令を発した。以後8年間にわたって日中戦争が継続した。
同年8月,外国の権益が集中する上海で,二人の日本人将兵が射殺される事件がおこり,これをきっかけに日中間の全面戦争が始まった。日本軍は国民党政府の首都南京を落とせば蒋介石は降伏すると考え,12月,南京を占領した(このとき,日本軍によって民しゅうにも多数の死傷者が出た。南京事件)。しかし,蒋介石は重慶に首都を移し,抗戦を続けた。

卢沟桥的日中冲突

关东军等在中国的日本军,为了维持满洲国,建立模块经济圈,在邻近的华北地区建立不受蒋介石支配的亲日政权,造成了跟中国方面的紧张关系。另外,日本在北京附近结集了4000人的驻军。这是依据在义和团事件以后,同其他列强一样,与中国签署的条约。
1937年7月7日晚,在北京郊外的卢沟桥,发生了向正在演习的日本军开枪的事件。
第2天早上,跟中国的国民党军之间发展到战争状态。虽然寻求现地解决,但,日本方面命令大规模派兵,国民党政府也立即发出了动员令。以后,日中战争持续了8年。
同年8月,在外国权益集中的上海,发生了2名日本官兵被枪杀的事件,由此而导致了日中全面战争的开始。日本军以为攻陷国民党政府首都南京,蒋介石就会投降,12月占领了南京(这时,日本军造成了许多一般百姓的死伤。南京事件)。但是,蒋介石移都重庆继续抗战。




悪化する日米関係

1938(昭和13)年,近衛文麿<このえふみまろ>首相は東亜新秩序の建設を声明し,日本・満州・中国を統合した経済圏をつくることを示唆した。これはのちに東南アジアを含めた大東亜共栄圏というスローガンに発展した。
アメリカは,門戸開放,機会均等を唱えて,日本が独自の経済圏をつくることを認めなかった。日中戦争で一応,中立を守っていたアメリカは,近衛声明に強く反発し,中国の蒋介石を公然と支援するようになった。日米戦争にいたる対立は,直接にはここから始まった。
1939年,アメリカはさらに日米通商航海条約を延長しないと通告した。多くの物資をアメリカとの貿易に依存していた日本は,しだいに経済的に苦しくなっていった。日本の陸軍には,北方のロシアの脅威に対処する北進論の考え方が伝統的に強かったが,このころから,東南アジアに進出して資源を獲得しようとする,南進論の考えが強まっていった。しかし,日本が東南アジアに進出すれば,そこに植民地をもつイギリス,アメリカ,オランダ,フランスと衝突するのは必至だった。

恶化的日美关系  翻译者 Ryu
1938(昭和13)年,首相近衛文麿发表了东亚新秩序的声明,唆使日本,满洲,中国形成统一的亚洲经济圈,再加上东南亚地区,发展形成大东亚共荣圈的主张。
美国提倡门户开放,机会均等,而不承认日本单独建立经济圈。在中日战争中保持中立的美国对近衛文麿的主张强烈抗议,并公开支持中国的蒋介石。导致日美战争的对立由此开始。
1939年,美国更是通告日本 不延长 日米通商航海条約 ,多数物资依靠美国贸易的日本,从此陷入经济困境。日本的陆军更是坚定了为对抗北方俄罗斯威胁的北进论想法,这个时候,为<B>进入</B>东南亚获得资源的南进论也加强了。但是日本如果 进入 东南亚,必然会合在那里拥有殖民地的英美荷法发生冲突。
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<P>           关于"日"本的历史教科书的内容,让每个亚洲人民看起来都觉得翻胃,楼猪觉得很有意思?</P>
先顶了,大家待解封吧
1984年清法战争中清廷战败
似乎是1884