【日本史】20世纪五六十年代日本的阴暗面

来源:百度文库 编辑:超级军网 时间:2024/04/29 04:53:00


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映画『ALWAYS 三丁目の夕日』は、昭和30年代の明るさを描いて评判を呼んだ。そこで、映画の中では取り上げられなかった昭和30年代の暗部についてとりあげる。
川沿いにバラック住宅が并ぶ。市电はあるが、自动车はほとんど走っていないので、道路でもガレキ置场でも子どもたちの游び场にはこと欠かない。だがそこも、方々の水溜まりも蚊や蝇がいっぱい。 道路でアイスキャンデーをなめても手を洗わない。売りにきた鱼屋にも蝇がいっぱいたかっている。热を出して病院へ连れて行かれた少年は「伝染病かもしれないよ」と忠告される。 家庭のゴミは、区の回収车がこないので自分たちで木の箱に入れて运ぶ。それらを集めて运ぶのは大八车。区役所にはトラックがない。その车もすぐに道にはまり込んでしまう。舗装などしていないので道路が悪く、雨が降ると水たまりになる。いやでも皆で后押しする。

电影《ALWAYS 三丁目的夕阳》描写了昭和30年代(1955年-1965年)的朝气蓬勃的场面,引发了轰动。但是在这里,笔者希望能够给大家介绍一下电影里没有出现的,那个时代的阴影。
那时候,河两岸都是民户。虽然大家可以利用电车来出行,但是马路上几乎没有汽车,空荡的街道上堆满了瓦砾和垃圾,孩子们在其中穿梭玩耍,街上坑坑洼洼积满雨水,蚊蝇很多,人们在街边吃雪糕,手脏兮兮的也不去洗。卖鱼的小贩推着车来来往往,苍蝇飞在鱼间。发烧了的少年被送到医院,医生嫌弃他:“你得的说不定是传染病。”没有垃圾车来收家庭垃圾,居民们自己把垃圾装进木筐里送到垃圾场,然后用人力拉车集中处理。政府没有大卡车,就算有,坑坑洼洼的路面也没法走。路面年久失修,下了雨就变成一个一个的水坑,车陷进去了,人们都视而不管,没人愿意帮助他人推车。


男の子・女の子の服装は今と変わりない。大人はほとんど下駄ばき、女は和服姿が多い。その顷は暗渠がなく、むき出しだった下水路からはいつも悪臭が漂っていた。昭和35年の(国道を除く)道路の舗装率は3%、下水道普及率は10%、どちらも先进国では最低だった。
子どもが平気で买い食いをする纸芝居屋や駄菓子の菓子もそうだが、町の中には、不卫生なことがいっぱいあった。衣类こそだいぶ余裕ができたが、まだまだ食べるものさえ栄养十分とはいえなかった。住宅は足らぬがちのお粗末なもの。 それでテレビ、电化制品などだけは一流国并み、レジャーの享楽も盛んになるばかり。だが、一歩外へ出て社会生活になると、道路は一世纪遅れのドブドロ道、天気が続けばたちまち断水。下水、尘芥、粪尿は、流しっぱなしの垂れ流し。子どもは游び场もなく、毎日车にはねられているといった光景。
「贷间に住んで二台のテレビ」、「家もないのにマイ・カー族」という言叶があった。これが〈生活革新〉などといえたであろうか。

男孩子和女孩子的衣装和现在没什么差异,大人脚下穿的几乎都是木屐,女人们大都穿和服。那时候路边排水沟很多,散发着刺鼻的恶臭。昭和35年(1960年)除了国道之外,硬化的道路仅仅有3%,下水道普及率也不过才10%,在发达国家中是最差的。孩子们都去街边的小贩那里买便宜的和果子吃,但是很脏,整座城市充满着不卫生。那时候人们已经不再为衣服不够发愁,但是在饮食上,还深受着营养不良的苦痛。住宅又小又窄又破,但是电视之类的电器的普及还算达到了一流国家平均水准,大家也开始懂得享受寻乐。但是从娱乐场所中走出来就会发现,泥泞坑洼的道路落后了一世纪,天气要是不好的话就断水,路边沟渠流着脏水、泥灰和粪尿,孩子没有玩耍的场所,只能到大街上玩,每天都有孩子被车撞死的消息。
那时候流行的几句话是“住的是出租屋,但装了两台电视”、“没有自己的房子,但是有车”。急剧的生活革新给人带来了这一切。


昭和30年代には暗い问题もかなり起こっていた。杀人・强奸など凶悪犯罪の増加、青年と老人の自杀率の高まりのほか、売春妇が全国に50万人、东京での完全失业者50万人との発表もある。昭和30年には森永粉ミルクによる砒素中毒で、人工栄养奇形児が多数発生して补偿要求が起こっていた。昭和
35~36年には小児マヒが流行したが、ワクチンがたりずに主妇たちは厚生省をとりまいた。四歳以下の乳幼児にみられる急性热性疾患が発见され発见者の名をとって「川崎病」と命名された问题も、この顷から起こっていた。 石炭不况で三池などの炭鉱争议が続き、主妇の身売りも出た。母子家庭は相変わらず苦しく、増加した女性労働者は保育所の不足に悩む、など社会病理问题は绝えることなく続いていた。しかも、同时に进んでいた激しい工业化(とくに重化学)は、さまざまな公害を発生して、各地で生活をおびやかすようになっていたが、昭和30年代初めの明るさは、それらが騒がれるまでの表侧の出来事だったのである。

昭和30年代,社会阴暗面的事件层出不穷。杀人和强奸等凶恶犯罪年年增加,青老年的自杀率逐年增长。全国有50万人以上的妓女,仅东京一城,完全失业的就高达50万人。昭和30年代发生了森永奶粉砒霜中毒事件,许多婴儿变成了畸形,伤心的父母索要赔偿。昭和35-36年(1960-1961年)发生了小儿麻痹症流行事件,疫苗不够,主妇们冲到厚生省讨说法。这个时代还出现了一种“川崎病”,主要发生在4岁以下的婴幼儿,症状是发急性高烧。煤炭市场不景气,三池煤矿等一系列煤矿争议勃发,很多人只好卖掉妻女。许多单亲妈妈独自带着孩子,生活潦倒,女人们不得不去工作,但托儿所严重不足,无处寄托孩子。一系列的社会病态问题持续不断。当时国家各地都在急剧地推进工业化(特别是化工产业),公害事件遍布全国,人们生产生活遭到严重的挑战。我们现在回顾的昭和30年代朝气蓬勃的旧时光,其实不过就是纷纷扰扰社会的表象而已。


大阪市のスモッグは、昭和25年前には年平均6日しかなかったが、31年に入ると平均125日も発生して车はライトをつけなくては走れなくなった。35年からは工场の燃料を石油に変えたのでスモッグは减ってきたが、こんどは亜硫酸ガスの浓度が基准の数倍になった。この顷大都市や工业都市では、重金属汚染や化学汚染、排出ガスや騒音などで急性で深刻な健康被害を発生していたのである。水俣病、イタイイタイ病、四日市公害など、大公害事件として騒がれる问题はこの顷から始まっていた。しかし、これらの裏侧の暗い侧面は、表侧でスピードを速めてきた「高度経済成长」の大きな波にのみこまれていって、大众の耳にはなかなか闻こえない声になっていたのである

大阪的雾霾在昭和25年左右的时候,每年只有6天。但是到了昭和31年,每年有125天发生雾霾,大白天汽车如果不开除雾灯都无法出行。昭和35年,工厂将能源由煤炭改成了石油,雾霾天气有所缓解,但是亚硝酸毒雾的浓度又变成了以往的几倍的水准,那时候各大城市和一些中小工业城市的人们的健康,都深受重金属污染、化学污染、尾气和噪音污染等。水俣病、骨痛病、四日市公害事件等重大公害事件浮出水面。但是这些黑暗面,都被“经济飞速增长”这个光鲜的巨浪给吞没,一般的民众根本就被隐瞒得严严实实。


都会生活の中では、マンションはまだ先のことだったが、アパート暮らしが一般的なものになってきた。
「私のいま住んでいるこの部屋も、やはりその“アパート”の一室なのですが、実はお隣の方の寝息が薄い腰板を通してもれてくるあんばいです。そういえば大会社やお役所のアパートはあまりに“アパート式”が多いのではないかと思います。四角なうす手の建物をベニヤ板と纸でこまかに仕切って、电灯をぶらさげたのが近ごろのアパートです。もちろん、台所や便所や押し入れの设备の粗悪なことは例外なく、采光や痛风の卫生设备のわるいこと格别です。台风や火事によって被害のでるのは、これらのアパートなのです。……ぜいたくをいっているのではないのです。せめてお隣の部屋の寝息の闻こえない、火事や风にも心配のない、本当に现代生活を楽しめるアパートを、政府も、公団も、都府県も、民営の建设业者も、建てて下さい。日本のアパートはじつは“アパート以前”で、贷间と変わりがありません」。

在大城市,人们几乎没有住的起高级住宅的,一般都是住简陋的公寓。
有人这样写:“我租的公寓其实只是小小的一间,和隔壁只用一个薄薄的木板挡住,都能听到隔壁人的呼吸。我觉得那些大公司和公务员住的公寓才叫公寓吧!我的公寓,仅仅是小小的四方形的一间,四面用三合板和报纸遮挡住,再装上一个电灯,仅此而已。厨房破旧,厕所破烂,抽屉都是劣质货。最最让人受不了的是采光和卫生度。刮起台风也好,起火了也好,第一个受害的一定是这种公寓。真心希望政府也好、民团也好、都道府县也好,给我们建造一些可以住的公寓吧!我们不希望条件有多好,只要我们睡觉不用听到隔壁人的呼噜声,只要我们不用害怕起火和起风就好,我们真的希望享受现代生活。日本的公寓要像公寓的样子,不要让我们住在出租屋里了好吗?”


またこの时代にも、农村と都市の住民には非常に大きな生活格差があり、これでいいのか、みんなで考えてほしいとの投书もあった。”
「……生い茂った雑木の枝を切り払い、松やクリの太い木はすべる坂道をつなで引っ张り出して、长い道を几往复となくすべってはころび、県道まで运び出し、整地した伐木の枝は焼いて炭にして、私にとっては难行苦行のつらい重労働であった。私は先日、上京して都会の主妇の生活を见て何と违いのはなはだしいことだろうかと考えながら歩いた。电気ガマ、电気せんたく机、电気扫除机、ガスぶろ、テレビと、もちろんこれは中流以上の生活ではあるが、今なお农村では朝に霜をふみ、夕に月を仰いで帰るといった生活が続けられているのである。农村と都会とは労力においても、こうまではなはだしい违いなのだろうか。人工卫星だの、オートメーション时代に、原始的な薪をたき、水道もない、文化とあまりにもかけはなれた生活、これでいいのだろうか。私は先日上京の折、泊っていた家の主妇が、朝、扫除をすませたのちひとり朝から新闻を読んでいる姿を思いうかべ、夕食后でなければ自分の时间の持てぬ农村の自分の生活と思い比べていた」。

这个时代,农村和城市的贫富差距非常巨大,很多人开始反思这个问题。
“切断繁茂大树的树枝,把松树和栗树的圆木顺着斜斜的山坡拉下,就这样反反复复无数来回。我们把这些树木送到县道,把树枝烧成木炭。这对于我们来说无疑是苦难修行。我前段日子去了趟东京,看看那里的主妇的生活,又对比了一下我自己。人家有电饭锅,有吸尘器,有洗衣机,还有热水浴池、电视,这些都是中产阶级以上的生活不是吗?而我们这些农妇呢?只能披星戴月,满身霜露,疲惫地劳动,疲惫地回家。同样是劳动力,农村和城市差别就这么大吗?现在都是人造卫星、自动化的时代了,为什么我们还用原始的办法伐薪烧炭,我们没有自来水,和现代文明近乎绝缘,这样是对的吗?我前几天去东京住在一个主妇朋友家,人家早上打扫完卫生之后就一个人读起报纸来。这不由得让我反思自己的农村生活,我只有在晚饭后才有自己的时间。”


昭和42年度の『国民所得白书』も次のように述べている。
「狭小な住宅につぎ込まれた耐久消费财や未整备の道路にあふれる多数の自动车など私的消费と社会的消费の不均衡、事故、公害、物価高などがもたらした所得と福祉の不均衡、豊かな衣生活と贫しい食生活、住生活が同居する消费内容の不均衡など、种々のひずみが国民生活を圧迫し、消费水准の上升にもかかわらず、国民の不満感には根强いものがある。とくに社会的消费の遅れは……国民の健康と生命に重大な胁威となっている」。

要するに昭和30年代は最后まで、国の生产量は非常に発展したが、家庭の生活水准は全体としてみればとても贫しいものだったのである。

昭和42年(1967年)的《国民所得白书》上如是记载。
“狭小的住宅、耐久性消费资材(家具等)、未整修的道路以及汽车的增加带来的私有消费和社会消费的不均衡;事故、公害、物价升高带来的收入和福利的不均衡;衣物的增加和食物的缺乏、住宅的增长和居住质量带来的不均衡等一系列的问题,给国民生活带来严重困难,压抑了消费水平的提高,加剧了国民的不满感。特别是社会性消费(基础设施的滞后)的不足,给国民的健康和生命带来重大的威胁。”
简而言之,昭和30年代国家GDP飞速增长,但是家庭的平均生活水准确实处于极度贫困的境地。


昭和30年代前半を代表する病理は、自杀率が戦后最高に高かったという问题である。全体としても自杀死亡率は、明治后期から昭和13年顷までは人口10万人当たり20前后を保って安定し、日支・太平洋戦争时代は大きく低下していた。それが29年から急に上升し30~33年は25前后を记录した。とくに男性は、30を前后とするところまで达し、その后50年间もこの数値が破られることがなかった。
まず年齢别では、男女共に20代の青年期と60代以上の高齢期に高くて、中年と10代は低い。**の调べも取り入れると、青年の自杀理由は、病苦(とくに结核)・厌世・失恋が多かった。しかし昭和35年顷から结核の死亡率が剧的に低下したのをきっかけに、40年代以降は男性は三分の一に、女性は四分の一に激减し、ピークはなくなってしまった。

昭和30年代前半段的代表性社会病就是自杀,该时期自杀率达到了战后最高的水平。总体看来,明治时代后期到昭和13年的这段时期,自杀率维持在20/10万人的水平,二战时期自杀率大幅减少,到了昭和29年又开始急剧上升。30-33年达到了25/10万人的水平。特别是男性的自杀率,高达30/10万人,之后的50年间再无突破这一水平。
按年龄来分,自杀者多为20多岁的青年和60岁以上的老年。中年和青少年较少。警察对青年的自杀理由进行了调查,病痛(特别是结核病)、厌世和失恋成为三大自杀理由。昭和35年之后,结核病的死亡率急剧减少,到了昭和40年,男性结核病死亡率下降到以前的三分之一,女性下降到四分之一,于是自杀率也随之减少。


高齢者の自杀理由は、警视庁の「自杀の概要」によると、男性は、病苦・経済・精神障害が三大要因で、女性は病苦が过半数を占める。回复见込みのない苦しみとともに、家族に心配をかけたくないとの思いも强くあった。家庭関系のトラブルに基づくものは一割程度である。なお、老人自杀と家族との関系では、昭和35年顷、「三世代同居の老人は、一人暮らし、夫妇暮らしの老人よりも自杀率が高い」という报告があった。これは一见、子家族とのトラブルが自杀を招くという印象を与えるが、重病の老人が大部分同居家族の中にいるという条件を加味して理解すべき问题である。かつて老人自杀が多かった新潟県郡部を调査した东洋大学社会学部の报告によれば、むしろ嫁姑関系は良好だった例の方が多かったそうである。嫁や息子にこれ以上迷惑をかけたくないという思いから自杀したのだった。

参考文献:『昭和后期の家族问题 1945~88年、混乱・新生・动揺のなかで』

至于老年人的自杀理由,按照警视厅《自杀概要》来看,老年男性自杀的三大原因是病痛、经济状况和精神障碍,女性自杀者一半以上是因为病痛。身体康复无望,又不想拖累家人,老年人只好选择死亡。然而亦有一成的自杀原因是因为家族不合。昭和35年的时候,有过这样一篇报告来描述老人自杀和家族关系:“三代同居的老人和独居的老人,相比夫妇两人同居的老人来说自杀率要高。”我们可以从中看出,老人的自杀和子女有一定的关系,明明有很多家人,但重病的老人仍然选择自杀,令人耐人寻味。新泻县郡部曾经是老人自杀的多发地,东洋D大学社会学部曾经探访调查,结果发现和子女媳妇关系越好,自杀的就越多。或许他们是不想给儿子媳妇添麻烦,才决然选择离开吧。

全文完
参考文献:《昭和后期的家族问题 1945-88年,混乱、新生、动摇之中》



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映画『ALWAYS 三丁目の夕日』は、昭和30年代の明るさを描いて评判を呼んだ。そこで、映画の中では取り上げられなかった昭和30年代の暗部についてとりあげる。
川沿いにバラック住宅が并ぶ。市电はあるが、自动车はほとんど走っていないので、道路でもガレキ置场でも子どもたちの游び场にはこと欠かない。だがそこも、方々の水溜まりも蚊や蝇がいっぱい。 道路でアイスキャンデーをなめても手を洗わない。売りにきた鱼屋にも蝇がいっぱいたかっている。热を出して病院へ连れて行かれた少年は「伝染病かもしれないよ」と忠告される。 家庭のゴミは、区の回収车がこないので自分たちで木の箱に入れて运ぶ。それらを集めて运ぶのは大八车。区役所にはトラックがない。その车もすぐに道にはまり込んでしまう。舗装などしていないので道路が悪く、雨が降ると水たまりになる。いやでも皆で后押しする。

电影《ALWAYS 三丁目的夕阳》描写了昭和30年代(1955年-1965年)的朝气蓬勃的场面,引发了轰动。但是在这里,笔者希望能够给大家介绍一下电影里没有出现的,那个时代的阴影。
那时候,河两岸都是民户。虽然大家可以利用电车来出行,但是马路上几乎没有汽车,空荡的街道上堆满了瓦砾和垃圾,孩子们在其中穿梭玩耍,街上坑坑洼洼积满雨水,蚊蝇很多,人们在街边吃雪糕,手脏兮兮的也不去洗。卖鱼的小贩推着车来来往往,苍蝇飞在鱼间。发烧了的少年被送到医院,医生嫌弃他:“你得的说不定是传染病。”没有垃圾车来收家庭垃圾,居民们自己把垃圾装进木筐里送到垃圾场,然后用人力拉车集中处理。政府没有大卡车,就算有,坑坑洼洼的路面也没法走。路面年久失修,下了雨就变成一个一个的水坑,车陷进去了,人们都视而不管,没人愿意帮助他人推车。


男の子・女の子の服装は今と変わりない。大人はほとんど下駄ばき、女は和服姿が多い。その顷は暗渠がなく、むき出しだった下水路からはいつも悪臭が漂っていた。昭和35年の(国道を除く)道路の舗装率は3%、下水道普及率は10%、どちらも先进国では最低だった。
子どもが平気で买い食いをする纸芝居屋や駄菓子の菓子もそうだが、町の中には、不卫生なことがいっぱいあった。衣类こそだいぶ余裕ができたが、まだまだ食べるものさえ栄养十分とはいえなかった。住宅は足らぬがちのお粗末なもの。 それでテレビ、电化制品などだけは一流国并み、レジャーの享楽も盛んになるばかり。だが、一歩外へ出て社会生活になると、道路は一世纪遅れのドブドロ道、天気が続けばたちまち断水。下水、尘芥、粪尿は、流しっぱなしの垂れ流し。子どもは游び场もなく、毎日车にはねられているといった光景。
「贷间に住んで二台のテレビ」、「家もないのにマイ・カー族」という言叶があった。これが〈生活革新〉などといえたであろうか。

男孩子和女孩子的衣装和现在没什么差异,大人脚下穿的几乎都是木屐,女人们大都穿和服。那时候路边排水沟很多,散发着刺鼻的恶臭。昭和35年(1960年)除了国道之外,硬化的道路仅仅有3%,下水道普及率也不过才10%,在发达国家中是最差的。孩子们都去街边的小贩那里买便宜的和果子吃,但是很脏,整座城市充满着不卫生。那时候人们已经不再为衣服不够发愁,但是在饮食上,还深受着营养不良的苦痛。住宅又小又窄又破,但是电视之类的电器的普及还算达到了一流国家平均水准,大家也开始懂得享受寻乐。但是从娱乐场所中走出来就会发现,泥泞坑洼的道路落后了一世纪,天气要是不好的话就断水,路边沟渠流着脏水、泥灰和粪尿,孩子没有玩耍的场所,只能到大街上玩,每天都有孩子被车撞死的消息。
那时候流行的几句话是“住的是出租屋,但装了两台电视”、“没有自己的房子,但是有车”。急剧的生活革新给人带来了这一切。


昭和30年代には暗い问题もかなり起こっていた。杀人・强奸など凶悪犯罪の増加、青年と老人の自杀率の高まりのほか、売春妇が全国に50万人、东京での完全失业者50万人との発表もある。昭和30年には森永粉ミルクによる砒素中毒で、人工栄养奇形児が多数発生して补偿要求が起こっていた。昭和
35~36年には小児マヒが流行したが、ワクチンがたりずに主妇たちは厚生省をとりまいた。四歳以下の乳幼児にみられる急性热性疾患が発见され発见者の名をとって「川崎病」と命名された问题も、この顷から起こっていた。 石炭不况で三池などの炭鉱争议が続き、主妇の身売りも出た。母子家庭は相変わらず苦しく、増加した女性労働者は保育所の不足に悩む、など社会病理问题は绝えることなく続いていた。しかも、同时に进んでいた激しい工业化(とくに重化学)は、さまざまな公害を発生して、各地で生活をおびやかすようになっていたが、昭和30年代初めの明るさは、それらが騒がれるまでの表侧の出来事だったのである。

昭和30年代,社会阴暗面的事件层出不穷。杀人和强奸等凶恶犯罪年年增加,青老年的自杀率逐年增长。全国有50万人以上的妓女,仅东京一城,完全失业的就高达50万人。昭和30年代发生了森永奶粉砒霜中毒事件,许多婴儿变成了畸形,伤心的父母索要赔偿。昭和35-36年(1960-1961年)发生了小儿麻痹症流行事件,疫苗不够,主妇们冲到厚生省讨说法。这个时代还出现了一种“川崎病”,主要发生在4岁以下的婴幼儿,症状是发急性高烧。煤炭市场不景气,三池煤矿等一系列煤矿争议勃发,很多人只好卖掉妻女。许多单亲妈妈独自带着孩子,生活潦倒,女人们不得不去工作,但托儿所严重不足,无处寄托孩子。一系列的社会病态问题持续不断。当时国家各地都在急剧地推进工业化(特别是化工产业),公害事件遍布全国,人们生产生活遭到严重的挑战。我们现在回顾的昭和30年代朝气蓬勃的旧时光,其实不过就是纷纷扰扰社会的表象而已。


大阪市のスモッグは、昭和25年前には年平均6日しかなかったが、31年に入ると平均125日も発生して车はライトをつけなくては走れなくなった。35年からは工场の燃料を石油に変えたのでスモッグは减ってきたが、こんどは亜硫酸ガスの浓度が基准の数倍になった。この顷大都市や工业都市では、重金属汚染や化学汚染、排出ガスや騒音などで急性で深刻な健康被害を発生していたのである。水俣病、イタイイタイ病、四日市公害など、大公害事件として騒がれる问题はこの顷から始まっていた。しかし、これらの裏侧の暗い侧面は、表侧でスピードを速めてきた「高度経済成长」の大きな波にのみこまれていって、大众の耳にはなかなか闻こえない声になっていたのである

大阪的雾霾在昭和25年左右的时候,每年只有6天。但是到了昭和31年,每年有125天发生雾霾,大白天汽车如果不开除雾灯都无法出行。昭和35年,工厂将能源由煤炭改成了石油,雾霾天气有所缓解,但是亚硝酸毒雾的浓度又变成了以往的几倍的水准,那时候各大城市和一些中小工业城市的人们的健康,都深受重金属污染、化学污染、尾气和噪音污染等。水俣病、骨痛病、四日市公害事件等重大公害事件浮出水面。但是这些黑暗面,都被“经济飞速增长”这个光鲜的巨浪给吞没,一般的民众根本就被隐瞒得严严实实。


都会生活の中では、マンションはまだ先のことだったが、アパート暮らしが一般的なものになってきた。
「私のいま住んでいるこの部屋も、やはりその“アパート”の一室なのですが、実はお隣の方の寝息が薄い腰板を通してもれてくるあんばいです。そういえば大会社やお役所のアパートはあまりに“アパート式”が多いのではないかと思います。四角なうす手の建物をベニヤ板と纸でこまかに仕切って、电灯をぶらさげたのが近ごろのアパートです。もちろん、台所や便所や押し入れの设备の粗悪なことは例外なく、采光や痛风の卫生设备のわるいこと格别です。台风や火事によって被害のでるのは、これらのアパートなのです。……ぜいたくをいっているのではないのです。せめてお隣の部屋の寝息の闻こえない、火事や风にも心配のない、本当に现代生活を楽しめるアパートを、政府も、公団も、都府県も、民営の建设业者も、建てて下さい。日本のアパートはじつは“アパート以前”で、贷间と変わりがありません」。

在大城市,人们几乎没有住的起高级住宅的,一般都是住简陋的公寓。
有人这样写:“我租的公寓其实只是小小的一间,和隔壁只用一个薄薄的木板挡住,都能听到隔壁人的呼吸。我觉得那些大公司和公务员住的公寓才叫公寓吧!我的公寓,仅仅是小小的四方形的一间,四面用三合板和报纸遮挡住,再装上一个电灯,仅此而已。厨房破旧,厕所破烂,抽屉都是劣质货。最最让人受不了的是采光和卫生度。刮起台风也好,起火了也好,第一个受害的一定是这种公寓。真心希望政府也好、民团也好、都道府县也好,给我们建造一些可以住的公寓吧!我们不希望条件有多好,只要我们睡觉不用听到隔壁人的呼噜声,只要我们不用害怕起火和起风就好,我们真的希望享受现代生活。日本的公寓要像公寓的样子,不要让我们住在出租屋里了好吗?”


またこの时代にも、农村と都市の住民には非常に大きな生活格差があり、これでいいのか、みんなで考えてほしいとの投书もあった。”
「……生い茂った雑木の枝を切り払い、松やクリの太い木はすべる坂道をつなで引っ张り出して、长い道を几往复となくすべってはころび、県道まで运び出し、整地した伐木の枝は焼いて炭にして、私にとっては难行苦行のつらい重労働であった。私は先日、上京して都会の主妇の生活を见て何と违いのはなはだしいことだろうかと考えながら歩いた。电気ガマ、电気せんたく机、电気扫除机、ガスぶろ、テレビと、もちろんこれは中流以上の生活ではあるが、今なお农村では朝に霜をふみ、夕に月を仰いで帰るといった生活が続けられているのである。农村と都会とは労力においても、こうまではなはだしい违いなのだろうか。人工卫星だの、オートメーション时代に、原始的な薪をたき、水道もない、文化とあまりにもかけはなれた生活、これでいいのだろうか。私は先日上京の折、泊っていた家の主妇が、朝、扫除をすませたのちひとり朝から新闻を読んでいる姿を思いうかべ、夕食后でなければ自分の时间の持てぬ农村の自分の生活と思い比べていた」。

这个时代,农村和城市的贫富差距非常巨大,很多人开始反思这个问题。
“切断繁茂大树的树枝,把松树和栗树的圆木顺着斜斜的山坡拉下,就这样反反复复无数来回。我们把这些树木送到县道,把树枝烧成木炭。这对于我们来说无疑是苦难修行。我前段日子去了趟东京,看看那里的主妇的生活,又对比了一下我自己。人家有电饭锅,有吸尘器,有洗衣机,还有热水浴池、电视,这些都是中产阶级以上的生活不是吗?而我们这些农妇呢?只能披星戴月,满身霜露,疲惫地劳动,疲惫地回家。同样是劳动力,农村和城市差别就这么大吗?现在都是人造卫星、自动化的时代了,为什么我们还用原始的办法伐薪烧炭,我们没有自来水,和现代文明近乎绝缘,这样是对的吗?我前几天去东京住在一个主妇朋友家,人家早上打扫完卫生之后就一个人读起报纸来。这不由得让我反思自己的农村生活,我只有在晚饭后才有自己的时间。”


昭和42年度の『国民所得白书』も次のように述べている。
「狭小な住宅につぎ込まれた耐久消费财や未整备の道路にあふれる多数の自动车など私的消费と社会的消费の不均衡、事故、公害、物価高などがもたらした所得と福祉の不均衡、豊かな衣生活と贫しい食生活、住生活が同居する消费内容の不均衡など、种々のひずみが国民生活を圧迫し、消费水准の上升にもかかわらず、国民の不満感には根强いものがある。とくに社会的消费の遅れは……国民の健康と生命に重大な胁威となっている」。

要するに昭和30年代は最后まで、国の生产量は非常に発展したが、家庭の生活水准は全体としてみればとても贫しいものだったのである。

昭和42年(1967年)的《国民所得白书》上如是记载。
“狭小的住宅、耐久性消费资材(家具等)、未整修的道路以及汽车的增加带来的私有消费和社会消费的不均衡;事故、公害、物价升高带来的收入和福利的不均衡;衣物的增加和食物的缺乏、住宅的增长和居住质量带来的不均衡等一系列的问题,给国民生活带来严重困难,压抑了消费水平的提高,加剧了国民的不满感。特别是社会性消费(基础设施的滞后)的不足,给国民的健康和生命带来重大的威胁。”
简而言之,昭和30年代国家GDP飞速增长,但是家庭的平均生活水准确实处于极度贫困的境地。


昭和30年代前半を代表する病理は、自杀率が戦后最高に高かったという问题である。全体としても自杀死亡率は、明治后期から昭和13年顷までは人口10万人当たり20前后を保って安定し、日支・太平洋戦争时代は大きく低下していた。それが29年から急に上升し30~33年は25前后を记录した。とくに男性は、30を前后とするところまで达し、その后50年间もこの数値が破られることがなかった。
まず年齢别では、男女共に20代の青年期と60代以上の高齢期に高くて、中年と10代は低い。**の调べも取り入れると、青年の自杀理由は、病苦(とくに结核)・厌世・失恋が多かった。しかし昭和35年顷から结核の死亡率が剧的に低下したのをきっかけに、40年代以降は男性は三分の一に、女性は四分の一に激减し、ピークはなくなってしまった。

昭和30年代前半段的代表性社会病就是自杀,该时期自杀率达到了战后最高的水平。总体看来,明治时代后期到昭和13年的这段时期,自杀率维持在20/10万人的水平,二战时期自杀率大幅减少,到了昭和29年又开始急剧上升。30-33年达到了25/10万人的水平。特别是男性的自杀率,高达30/10万人,之后的50年间再无突破这一水平。
按年龄来分,自杀者多为20多岁的青年和60岁以上的老年。中年和青少年较少。警察对青年的自杀理由进行了调查,病痛(特别是结核病)、厌世和失恋成为三大自杀理由。昭和35年之后,结核病的死亡率急剧减少,到了昭和40年,男性结核病死亡率下降到以前的三分之一,女性下降到四分之一,于是自杀率也随之减少。


高齢者の自杀理由は、警视庁の「自杀の概要」によると、男性は、病苦・経済・精神障害が三大要因で、女性は病苦が过半数を占める。回复见込みのない苦しみとともに、家族に心配をかけたくないとの思いも强くあった。家庭関系のトラブルに基づくものは一割程度である。なお、老人自杀と家族との関系では、昭和35年顷、「三世代同居の老人は、一人暮らし、夫妇暮らしの老人よりも自杀率が高い」という报告があった。これは一见、子家族とのトラブルが自杀を招くという印象を与えるが、重病の老人が大部分同居家族の中にいるという条件を加味して理解すべき问题である。かつて老人自杀が多かった新潟県郡部を调査した东洋大学社会学部の报告によれば、むしろ嫁姑関系は良好だった例の方が多かったそうである。嫁や息子にこれ以上迷惑をかけたくないという思いから自杀したのだった。

参考文献:『昭和后期の家族问题 1945~88年、混乱・新生・动揺のなかで』

至于老年人的自杀理由,按照警视厅《自杀概要》来看,老年男性自杀的三大原因是病痛、经济状况和精神障碍,女性自杀者一半以上是因为病痛。身体康复无望,又不想拖累家人,老年人只好选择死亡。然而亦有一成的自杀原因是因为家族不合。昭和35年的时候,有过这样一篇报告来描述老人自杀和家族关系:“三代同居的老人和独居的老人,相比夫妇两人同居的老人来说自杀率要高。”我们可以从中看出,老人的自杀和子女有一定的关系,明明有很多家人,但重病的老人仍然选择自杀,令人耐人寻味。新泻县郡部曾经是老人自杀的多发地,东洋D大学社会学部曾经探访调查,结果发现和子女媳妇关系越好,自杀的就越多。或许他们是不想给儿子媳妇添麻烦,才决然选择离开吧。

全文完
参考文献:《昭和后期的家族问题 1945-88年,混乱、新生、动摇之中》

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打印机 发表于 2013-8-31 09:56
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济南有位抗美援朝不回去的美军俘虏,他说他当年驻鬼子那妓女玩腻了,装点罐头食品啥的上大街看顺眼的就办。