鬼子的史区

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(6)「中国を征服したのはヌルハチじゃないぞ。 それはともかく、清(后金)は征服した汉民族を吸収して自分の势力に组み込めたのに対し、秀吉にはそれができなかった。 このへんが问题なんじゃないかな。」(6)
(6)征服中国的也不是努尔哈赤呀(应该是多尔衮、吴三桂、顺治啥的),暂且不纠结这个问题。清(后金)吸收了被征服的汉族的文化为己所用,秀吉却无法做到。这才是问题吧?

(7)「>>1明は満州に灭ぼされたのではなく、国内で李自成の乱が起こって皇帝が杀されて胜手に灭亡したのだが?」(7)
(7)回1楼,明朝不是被满洲所灭的,而是国内农民起义李自成灭掉的。

(10)「(山野野衾)>7现在北京には李自成の(台座も含めて)马鹿でかい铜像が立っております。あの辺で死んでいれば共产主义の英雄になれる訳やね。」(10)
(10)回7楼,如今北京还有傻大的李自成的铜像呢,如果在那里死掉的话应该能成为共产主义英雄。

(140)「(壮绝なる明朝皇帝)>>7 > 明は満州に灭ぼされたのではなく、国内で李自成の乱が起こって皇帝が杀さ > れて胜手に灭亡したのだが?明の最后の皇帝、永暦帝が降服したのは1660年、清の将军になっていた呉三桂に降服。永暦帝のまえの隆武帝を败死させたのも清朝。明にとどめを指したのは清朝。」(140)
(140)回7楼,说明朝被李自成所灭不对吧,明朝最后的皇帝永历帝(南明山寨小朝廷的皇帝吧)向已经成为清朝将军的吴三桂是1660年,杀死永历帝之前的隆武帝的也是清朝,给明朝最后一击的应该还是清朝。

(141)「(中华@名无史さん)永暦帝?隆武帝ともに正当な「明」とは言えないのでは? 一时期は亡命政権皇帝が三人も居たのですからね。まぁ、何処の时点を「明」の终わりとするか、と言うのは人それぞれだと思うので 言いたい事は判りますが??? 本来のスレネタとは离れて居るのでさげ」(141)
(141)永历帝、隆武帝都算不上正统吧?那个时期流亡政府还同时存在三个皇帝呢。无所谓,反正明朝是完了,我明白楼上想说啥,但是咱们跑题了吧?

(148)「>>141 >>7は、明が「胜手に灭亡した」と主张している。 私は、再生をはかる南明势力を全てつぶし、消灭せて、最终的に「明朝にとどめをさした」のは清朝、という事実を私的しているだけだよ。XXXXXXXXXXXXXXXXXXXXX1643年、明の毅宗が死んだ段阶で、関内には大别して下记のごとき三系统の汉人势力があった。 华北??????李自成政権(顺) 四川??????张献忠政権 华中?华南???明朝残存势力清朝は、これらの汉人势力をことごとく灭ぼし、自国に统合した。よって、「明朝を灭ぼした」のは清朝。「明朝系汉人势力の蠢动をことごとく平定した」といえば、>>141 さんも満足かな。」(148)
(148)回141楼,7楼认为明朝亡于李自成,我还是认为对南明小朝廷斩草除根的清朝才是事实。1643年明毅宗死后,关内主要分裂成以下几块:华北-李自成。四川-张献忠华中、华南-明朝残余势力。清朝利用汉人的势力最终完全消灭了这三股势力,统一了中国。所以灭亡明朝的就是清朝。如果说成是“完全平定明朝系汉人势力的是清朝”141楼也应该没意见了吧?

(149)「(中华@名无史さん)>148レスさんくすと言うか漏れは别に>>141であなたの论を否定した訳では无いのですよ(w漏れは”明の最后の皇帝”と言う部分で反応しただけであって、明朝系汉人势力を平定したのは”清朝”だとは认识していますよ?と言うか某中华皇帝を评価するスレでも漏れは康熙帝は评価していますからね。と言うより、この一连の话题はこのスレより「明王朝を语る」スレの方が良い気がします。本来sage たかったけどレスなのでageて置きます。」(149)

(149)感谢148楼,虽然有遗漏,回141楼,并不是要否定你的说法,争议的问题只是明朝最后的皇帝这部分,虽然认定平定明朝系汉人势力的是清朝这一说法,(后略),总之跑题了,继续。

(8)「あとは国内统一のレベル。秀吉は天下人とはいえ、农民出、なりたてのホヤホヤ。」(8)
(8)此外(秀吉)也就统一日本那点儿能耐,秀吉虽然统一了日本,也就是个农民爆发户。

(9)「秀吉が急死しなければ南朝鲜ぐらいは手中にしていたのでは?再征计画してたんだし。それともっと补给だとか军备だとか往年の秀吉のようにきちんとした戦略たててればよかったのかも。」(9)
(9)如果秀吉不是死那么早只拿下个南朝鲜什么的应该不成问题吧?本来还有继续侵略的计划,不论是补给还是军备,如果按照秀吉年轻时的做法从战略上来说应该还OK的。

(19)「>>9百歩譲ってそれが正しいとしても、せいぜいちっぽけな南朝鲜だろ?そんなのヌルハチだって建国から数年でそれぐらいの中国领を占领してるよ。全然征服のレベルが违う。」(19)
(19)回9楼,就算退一百步你说的是对的,但是就算能拿下小小的南朝鲜吧?可是人家努尔哈赤只花了几年时间就占领全中国了呀,跟人家根本就不是一个等级的。

(23)「>>19だから上の谁かがいいっているように、ヌルハチの建国(统一)后、相当な时间がかかっているの。それに、清が明を征服したのはヌルハチが死んでからだよ。そのくらいのことも知らないとは。」
(23)回19楼,所以就像楼上哪位说过的那样,努尔哈赤的建国(统一)以后,还是花了相当长的时间呀。而且清灭明是努尔哈赤死后的事情,这种常识居然不知道~

(11)「信长が本能寺の変で死なずに生き延びていれば、秀吉自身が朝鲜へ出阵できたのでは?朝鲜で负けたのは、军の统制や补给なんかにも问题があったと考えられるので、秀吉が直接指挥していれば、もっと违った结果になったかも。」(11)
(11)如果信长不是在本能寺挂了还活着的话,应该是秀吉自己去打朝鲜吧?因为朝鲜的失败是因为军队没管好补给没跟上,所以如果是秀吉亲自指挥应该是完全不一样的结果吧?


(12)「清はヌルハチが明に反抗したのが1618年、清が北京いりしたのが1644年、决して短期间では内容に思うが。」(12)
(12)努尔哈赤开始打明朝是1618年的事,到清朝进北京是1644年,这绝对不是短时间完成的吧?

(13)「 なんで谁も呉三桂の事をかかないの? 色恋のためなら、自分の祖国すらも裏切り、山海関を开き李自成を夷をもってまでもやっつけようとした男の事を…」(13)
(13)为啥谁也不提吴三桂呢?为了女人的事(陈圆圆)居然背叛祖国打开山海关帮助夷人打李自成。。。

(14)「(世界@名无史さん)>>13ありゃ伝说だろうが???」(14)
(14)回13楼,那个(冲冠一怒为红颜)只不过是传说吧?

(15)「秀吉はフィリピンへ侵攻していれば确実に落とせてたと言われてますね。中国を力攻めで攻め落とすのは难しいでしょ、やっぱし。」(15)
(15)如果秀吉当年打的是菲利宾应该能打下吧?跟中国硬碰硬根本打不下来。

(16)「(名无しさん)>>15しかし落すなら中国の方が面白いだろ。」(16)
(16)回15楼,如果打下来了中国那边就搞笑了。

(17)「温かい国の兵が寒い国を征服するのは难しい。日本军は朝鲜でも寒くて困っていた。草履だから。」(17)
(17)气候温暖的国家的军队想征服寒冷国家的真的很难,日军当年在朝鲜为寒所困。因为只有草鞋。

(18)「満州と朝鲜は地続き、日本と朝鲜は海で隔てられている。この违いが大きかったのではないか。実际、豊臣秀吉の朝鲜出兵の最大の败因は、李舜臣率いる朝鲜水军に日本水军が败れた为に日本军への海上からの补给が出来なかったから。」(18)
(18)满洲和朝鲜接壤,日本与朝鲜隔海相望。这的差距可不是一般的打吧?实际上秀吉侵略朝鲜最大的败因就是日本海军被李舜臣率领的朝鲜海军打败,导致日本的海上补给线被切断。

(35)「>>18うーん、李舜臣は结局日本军の补给线を断つことは出来なかったハズだが。日本の撤退も阻止できなかったし。」(35)
(35)回18楼,李舜臣到最后应该也没能完全切断日军的补给线吧,而且也没能阻止日军的撤退。



第一次是在郑芝龙的使者来日候的第三年--即庆安元年(1648年),《华夷变态》中收有他的求援信的译文(日文)。信中说:“……余生于日本,思慕日本 之心尤深。今处艰难之际,恳请日本以叔侄、兄弟之情待余,施予恩惠。”以血缘相连的唇齿真情。幕府虽进行过讨论,但未复信,看来是未予受理。
  
   第二次是在三年后的庆安四年(1651年)。徐鼐的《小腆纪年附考》中说:“(辛卯十二月)明朱成功(郑成功)取漳浦,遣使通好日本。”指的就是这件事。 据后文说,这次是郑成功为了补充物资的短缺,根据参谋冯澄世的献策,向日本接待物资,以此补充短缺,同时卖给吕宋(菲律宾)、交趾(越南)、泰国等,以获 取利润。
  
   文中曾写到:“已获日本铅铜之助。”另外如中村久四郎等人所诉,可以想象郑成功等人的军中已经有日本刀和日本式的甲胄等。由此来看,完全可以想象一直从日本获取某种援助。--即使没有幕府的正式援助,也会有民间人士某种形式的声援。
   第三次是万洽元年(顺治十五年)(1658年)六月,他派遣的使船载乘员一百四十七人,进入长崎,带来了书信和各种物品。书信开头写着“启上日本国上将军麾下”,原文收入《华夷变态》。但幕府“未及复书”,未予理睬。
  
   第四次是万治三年(1660年)七月,命其部下张光启向日本借兵。《海上见闻录》上写道:“命兵官张光启,往倭国借兵。”指的就是这一次。沈云的《台湾郑 氏始末》上也有内容大体相同的记载,关于这次的结果,他写道:“日本上将军不予发兵,助铜熕(铜制大炮)、鹿铳、倭刀为备。”大概乞师的事情未成,但乞资 的事情取得了一些成果。
  
   郑成功的请援使有以上四次。但最后一次乞师的第三年,他壮志未酬,死于南海之地。继承其遗志的是郑经。
   郑经也有一次乞资。时间是在宽文三年(清康熙二年)(1663年)。
  
   这次乞资的经过是这样:郑成功的哥哥、郑经的伯父郑泰本来就有二心,被郑经察觉后,遂令其自尽。当时从其遗物中发觉郑泰把同我国贸易所收获的大量银钱寄存在长崎。因此,为了拿到这笔银钱作为“恢剿逆虏之资”,而给长崎奉行送去了一封信。
  
   结果是多半银钱已经被倒向清朝方面的郑泰的孙子郑奎舍和郑泰的侄儿郑按舍领走,看来郑经的意图基本上没有实现。不过,郑经对日本国进行的那种活动,可以算作广义的乞资。
  
   其它明末遗臣的乞师
  
   以上是郑氏家族向日本要求援军的经过,而明朝遗臣的乞师另外还有数十次,其中主要的罗列如下:春秋中文社区http://bbs.cqzg.cn
  
   第一次春秋中文社区http://bbs.cqzg.cn
  
   正保二年(清顺治二年)(1645年)十二月。
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   仕于唐王的都督崔芝,以林高为使者,派去日本,要求派兵三千。(郑芝龙汲取书信中说“……前云借兵五千……”一般认为就是指的这次崔芝要求派兵。)对于这 次借兵,幕府向长崎奉行指示说:“……此次林高虽来申述,然而事起仓促,无意满足。可将此意告知,令林高早早回国。”
  
   表面上做出的答复是拒绝,据说其实是在暗暗地作出兵准备。但是京都所司代板仓重宗曾经向其侄儿板仓重矩透露了出兵计划,而且极其具体地记录下了计划的内容,决定派“主将一人,副将十人”,“知行一万石征发一骑和步兵三至五人”。由此可以相当清楚地看出其中内幕情况。
  
   第二次
   同年冬。春秋中文社区http://bbs.cqzg.cn

海盗出生地水军都督周鹤芝,要求与其有旧交的萨摩藩主岛津氏派遣援兵。据说萨摩藩答应以第二年四月为期,借兵三万。(另,有人认为第一次派求援使来的崔芝和这位周鹤芝是异人异名,也有人认可是异名同人。)
  
   第三次
   正保三年(顺治三年)(1664年)三月。春秋中文社区http://bbs.cqzg.cn
   周鹤芝根据前一年与萨摩藩的约定,准备派遣参谋林斋舞把计划付诸实现。但找到副将黄斌卿的反对,据说未能实现。
  
   第四次
   同年九月。
   (也就是上述郑芝龙的乞师。)
   第五次
   正保四年(顺治四年)(1647年)二月。
  
   周鹤芝遭到黄斌卿的反对,一度放弃了向萨摩乞师的念头,这次又要求派援兵。但这时福州已经失陷,唐王也被捕,萨摩藩尽管与周鹤芝之间有“父子之义”,但其救明的意志已经减退,因而不了了之。
   第六次
   同年三月。春秋中文社区http://bbs.cqzg.cn
   看来周鹤芝向日本乞师最为热心。他一义子林皋为使者,随同安昌王于这一年再次向日本乞师。但据说不得要领而还。
  
   第七次
   同年六月。
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   安昌王曾作为第六次求援使去过日本。这次他借同御史冯京第及黄斌卿的弟弟黄孝卿,又来日乞师。但据说黄孝卿耽溺于长崎的妓女,把乞师之意忘在脑后。由此可以看出,明朝遗臣方面也开始出现了颓废的萌芽。
  
   第八次春秋中文社区http://bbs.cqzg.cn
   庆安元年(顺治五年)(1648年)。
   (即上述郑成功的乞师。)
  
   第九次
   庆安二年(顺治六年)(1649年)十月。
  
   冯京第偕同黄宗羲去日本乞师。从《海东逸史》来看,与第六次的记述(《日本乞师记》)、第七次的记述(《海东逸史》)同样都记为“不得要领而还”,大概是基本上未予受理,稀里糊涂地回去了。
   第十次
   同年冬。
   据说舟山群岛的鲁王处任职的御史俞图南来岛了日本。汪光复的《明季续闻》仅作了这样的记载,详情不明。但可想而知也是为了乞师。
  
   第十一次
   同年十一月。在鲁王处任职的将军阮美去日本乞师。但其背后有*僧捣鬼,表明乞师情况正走向穷途末路。
  
   第十二次
   万治元年(顺治十五年)(1658年)六月。
   (即上述郑成功的乞师。对他来说是第二次乞师。)
  
   第十三次
   同年。
  
   郑氏家族郑泰的请援。《外藩通书》在记载《郑经呈长崎奉行书》的后面,附有近藤守重的按语:“郑泰于永历十三年(明永明王的年号)(清顺治十五年)向日本请援。”但按语仅次一行,不知是否属实。
   第十四次
   万治二年(顺治十六年)(1659年)。
  
   朱舜水乞师,朱舜水后来作为水户藩的宾客而收到重视,最后以日本为埋骨之地。他曾经多次去日本,所以关于他的乞师计划,也很难决定其年代。现在根据中村久四郎的说法,把他最后去日本的年代(也就是最后没有回国那次)看作是乞师的年代,因而就以万治二年为期了。
  
   第十五次
   万治三年(顺治十七年)(1660年)七月。
   (上述郑成功部将张光启的借兵。)
  
   第十六次
   贞享三年(康熙二十五年)(1686年)七月。
  
   这时候三藩之乱已经平定,占据台湾的郑氏家族已经投降,清王朝的基础已经十分巩固。但还是有一个名叫张斐的明人来到长崎,声称:“闻水户候甚重道义,为得其助,以谋恢复而来。”到了这个时候仍然有人不舍复兴明室之志,确实令人惊愕。这是所能知道的最后一次乞师了。
看了这个资料不知兄台您还能信誓当当的给乔某科普日本没有派送物资吗?
但是京都所司代板仓重宗曾经向其侄儿板仓重矩透露了出兵计划,而且极其具体地记录下了计划的内容,决定派“主将一人,副将十人”,“知行一万石征发一骑和步兵三至五人”。这段话又说明了什么?说明日本没派兵吗?
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(6)「中国を征服したのはヌルハチじゃないぞ。 それはともかく、清(后金)は征服した汉民族を吸収して自分の势力に组み込めたのに対し、秀吉にはそれができなかった。 このへんが问题なんじゃないかな。」(6)
(6)征服中国的也不是努尔哈赤呀(应该是多尔衮、吴三桂、顺治啥的),暂且不纠结这个问题。清(后金)吸收了被征服的汉族的文化为己所用,秀吉却无法做到。这才是问题吧?

(7)「>>1明は満州に灭ぼされたのではなく、国内で李自成の乱が起こって皇帝が杀されて胜手に灭亡したのだが?」(7)
(7)回1楼,明朝不是被满洲所灭的,而是国内农民起义李自成灭掉的。

(10)「(山野野衾)>7现在北京には李自成の(台座も含めて)马鹿でかい铜像が立っております。あの辺で死んでいれば共产主义の英雄になれる訳やね。」(10)
(10)回7楼,如今北京还有傻大的李自成的铜像呢,如果在那里死掉的话应该能成为共产主义英雄。

(140)「(壮绝なる明朝皇帝)>>7 > 明は満州に灭ぼされたのではなく、国内で李自成の乱が起こって皇帝が杀さ > れて胜手に灭亡したのだが?明の最后の皇帝、永暦帝が降服したのは1660年、清の将军になっていた呉三桂に降服。永暦帝のまえの隆武帝を败死させたのも清朝。明にとどめを指したのは清朝。」(140)
(140)回7楼,说明朝被李自成所灭不对吧,明朝最后的皇帝永历帝(南明山寨小朝廷的皇帝吧)向已经成为清朝将军的吴三桂是1660年,杀死永历帝之前的隆武帝的也是清朝,给明朝最后一击的应该还是清朝。

(141)「(中华@名无史さん)永暦帝?隆武帝ともに正当な「明」とは言えないのでは? 一时期は亡命政権皇帝が三人も居たのですからね。まぁ、何処の时点を「明」の终わりとするか、と言うのは人それぞれだと思うので 言いたい事は判りますが??? 本来のスレネタとは离れて居るのでさげ」(141)
(141)永历帝、隆武帝都算不上正统吧?那个时期流亡政府还同时存在三个皇帝呢。无所谓,反正明朝是完了,我明白楼上想说啥,但是咱们跑题了吧?

(148)「>>141 >>7は、明が「胜手に灭亡した」と主张している。 私は、再生をはかる南明势力を全てつぶし、消灭せて、最终的に「明朝にとどめをさした」のは清朝、という事実を私的しているだけだよ。XXXXXXXXXXXXXXXXXXXXX1643年、明の毅宗が死んだ段阶で、関内には大别して下记のごとき三系统の汉人势力があった。 华北??????李自成政権(顺) 四川??????张献忠政権 华中?华南???明朝残存势力清朝は、これらの汉人势力をことごとく灭ぼし、自国に统合した。よって、「明朝を灭ぼした」のは清朝。「明朝系汉人势力の蠢动をことごとく平定した」といえば、>>141 さんも満足かな。」(148)
(148)回141楼,7楼认为明朝亡于李自成,我还是认为对南明小朝廷斩草除根的清朝才是事实。1643年明毅宗死后,关内主要分裂成以下几块:华北-李自成。四川-张献忠华中、华南-明朝残余势力。清朝利用汉人的势力最终完全消灭了这三股势力,统一了中国。所以灭亡明朝的就是清朝。如果说成是“完全平定明朝系汉人势力的是清朝”141楼也应该没意见了吧?

(149)「(中华@名无史さん)>148レスさんくすと言うか漏れは别に>>141であなたの论を否定した訳では无いのですよ(w漏れは”明の最后の皇帝”と言う部分で反応しただけであって、明朝系汉人势力を平定したのは”清朝”だとは认识していますよ?と言うか某中华皇帝を评価するスレでも漏れは康熙帝は评価していますからね。と言うより、この一连の话题はこのスレより「明王朝を语る」スレの方が良い気がします。本来sage たかったけどレスなのでageて置きます。」(149)

(149)感谢148楼,虽然有遗漏,回141楼,并不是要否定你的说法,争议的问题只是明朝最后的皇帝这部分,虽然认定平定明朝系汉人势力的是清朝这一说法,(后略),总之跑题了,继续。

(8)「あとは国内统一のレベル。秀吉は天下人とはいえ、农民出、なりたてのホヤホヤ。」(8)
(8)此外(秀吉)也就统一日本那点儿能耐,秀吉虽然统一了日本,也就是个农民爆发户。

(9)「秀吉が急死しなければ南朝鲜ぐらいは手中にしていたのでは?再征计画してたんだし。それともっと补给だとか军备だとか往年の秀吉のようにきちんとした戦略たててればよかったのかも。」(9)
(9)如果秀吉不是死那么早只拿下个南朝鲜什么的应该不成问题吧?本来还有继续侵略的计划,不论是补给还是军备,如果按照秀吉年轻时的做法从战略上来说应该还OK的。

(19)「>>9百歩譲ってそれが正しいとしても、せいぜいちっぽけな南朝鲜だろ?そんなのヌルハチだって建国から数年でそれぐらいの中国领を占领してるよ。全然征服のレベルが违う。」(19)
(19)回9楼,就算退一百步你说的是对的,但是就算能拿下小小的南朝鲜吧?可是人家努尔哈赤只花了几年时间就占领全中国了呀,跟人家根本就不是一个等级的。

(23)「>>19だから上の谁かがいいっているように、ヌルハチの建国(统一)后、相当な时间がかかっているの。それに、清が明を征服したのはヌルハチが死んでからだよ。そのくらいのことも知らないとは。」
(23)回19楼,所以就像楼上哪位说过的那样,努尔哈赤的建国(统一)以后,还是花了相当长的时间呀。而且清灭明是努尔哈赤死后的事情,这种常识居然不知道~

(11)「信长が本能寺の変で死なずに生き延びていれば、秀吉自身が朝鲜へ出阵できたのでは?朝鲜で负けたのは、军の统制や补给なんかにも问题があったと考えられるので、秀吉が直接指挥していれば、もっと违った结果になったかも。」(11)
(11)如果信长不是在本能寺挂了还活着的话,应该是秀吉自己去打朝鲜吧?因为朝鲜的失败是因为军队没管好补给没跟上,所以如果是秀吉亲自指挥应该是完全不一样的结果吧?


(12)「清はヌルハチが明に反抗したのが1618年、清が北京いりしたのが1644年、决して短期间では内容に思うが。」(12)
(12)努尔哈赤开始打明朝是1618年的事,到清朝进北京是1644年,这绝对不是短时间完成的吧?

(13)「 なんで谁も呉三桂の事をかかないの? 色恋のためなら、自分の祖国すらも裏切り、山海関を开き李自成を夷をもってまでもやっつけようとした男の事を…」(13)
(13)为啥谁也不提吴三桂呢?为了女人的事(陈圆圆)居然背叛祖国打开山海关帮助夷人打李自成。。。

(14)「(世界@名无史さん)>>13ありゃ伝说だろうが???」(14)
(14)回13楼,那个(冲冠一怒为红颜)只不过是传说吧?

(15)「秀吉はフィリピンへ侵攻していれば确実に落とせてたと言われてますね。中国を力攻めで攻め落とすのは难しいでしょ、やっぱし。」(15)
(15)如果秀吉当年打的是菲利宾应该能打下吧?跟中国硬碰硬根本打不下来。

(16)「(名无しさん)>>15しかし落すなら中国の方が面白いだろ。」(16)
(16)回15楼,如果打下来了中国那边就搞笑了。

(17)「温かい国の兵が寒い国を征服するのは难しい。日本军は朝鲜でも寒くて困っていた。草履だから。」(17)
(17)气候温暖的国家的军队想征服寒冷国家的真的很难,日军当年在朝鲜为寒所困。因为只有草鞋。

(18)「満州と朝鲜は地続き、日本と朝鲜は海で隔てられている。この违いが大きかったのではないか。実际、豊臣秀吉の朝鲜出兵の最大の败因は、李舜臣率いる朝鲜水军に日本水军が败れた为に日本军への海上からの补给が出来なかったから。」(18)
(18)满洲和朝鲜接壤,日本与朝鲜隔海相望。这的差距可不是一般的打吧?实际上秀吉侵略朝鲜最大的败因就是日本海军被李舜臣率领的朝鲜海军打败,导致日本的海上补给线被切断。

(35)「>>18うーん、李舜臣は结局日本军の补给线を断つことは出来なかったハズだが。日本の撤退も阻止できなかったし。」(35)
(35)回18楼,李舜臣到最后应该也没能完全切断日军的补给线吧,而且也没能阻止日军的撤退。



第一次是在郑芝龙的使者来日候的第三年--即庆安元年(1648年),《华夷变态》中收有他的求援信的译文(日文)。信中说:“……余生于日本,思慕日本 之心尤深。今处艰难之际,恳请日本以叔侄、兄弟之情待余,施予恩惠。”以血缘相连的唇齿真情。幕府虽进行过讨论,但未复信,看来是未予受理。
  
   第二次是在三年后的庆安四年(1651年)。徐鼐的《小腆纪年附考》中说:“(辛卯十二月)明朱成功(郑成功)取漳浦,遣使通好日本。”指的就是这件事。 据后文说,这次是郑成功为了补充物资的短缺,根据参谋冯澄世的献策,向日本接待物资,以此补充短缺,同时卖给吕宋(菲律宾)、交趾(越南)、泰国等,以获 取利润。
  
   文中曾写到:“已获日本铅铜之助。”另外如中村久四郎等人所诉,可以想象郑成功等人的军中已经有日本刀和日本式的甲胄等。由此来看,完全可以想象一直从日本获取某种援助。--即使没有幕府的正式援助,也会有民间人士某种形式的声援。
   第三次是万洽元年(顺治十五年)(1658年)六月,他派遣的使船载乘员一百四十七人,进入长崎,带来了书信和各种物品。书信开头写着“启上日本国上将军麾下”,原文收入《华夷变态》。但幕府“未及复书”,未予理睬。
  
   第四次是万治三年(1660年)七月,命其部下张光启向日本借兵。《海上见闻录》上写道:“命兵官张光启,往倭国借兵。”指的就是这一次。沈云的《台湾郑 氏始末》上也有内容大体相同的记载,关于这次的结果,他写道:“日本上将军不予发兵,助铜熕(铜制大炮)、鹿铳、倭刀为备。”大概乞师的事情未成,但乞资 的事情取得了一些成果。
  
   郑成功的请援使有以上四次。但最后一次乞师的第三年,他壮志未酬,死于南海之地。继承其遗志的是郑经。
   郑经也有一次乞资。时间是在宽文三年(清康熙二年)(1663年)。
  
   这次乞资的经过是这样:郑成功的哥哥、郑经的伯父郑泰本来就有二心,被郑经察觉后,遂令其自尽。当时从其遗物中发觉郑泰把同我国贸易所收获的大量银钱寄存在长崎。因此,为了拿到这笔银钱作为“恢剿逆虏之资”,而给长崎奉行送去了一封信。
  
   结果是多半银钱已经被倒向清朝方面的郑泰的孙子郑奎舍和郑泰的侄儿郑按舍领走,看来郑经的意图基本上没有实现。不过,郑经对日本国进行的那种活动,可以算作广义的乞资。
  
   其它明末遗臣的乞师
  
   以上是郑氏家族向日本要求援军的经过,而明朝遗臣的乞师另外还有数十次,其中主要的罗列如下:春秋中文社区http://bbs.cqzg.cn
  
   第一次春秋中文社区http://bbs.cqzg.cn
  
   正保二年(清顺治二年)(1645年)十二月。
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   仕于唐王的都督崔芝,以林高为使者,派去日本,要求派兵三千。(郑芝龙汲取书信中说“……前云借兵五千……”一般认为就是指的这次崔芝要求派兵。)对于这 次借兵,幕府向长崎奉行指示说:“……此次林高虽来申述,然而事起仓促,无意满足。可将此意告知,令林高早早回国。”
  
   表面上做出的答复是拒绝,据说其实是在暗暗地作出兵准备。但是京都所司代板仓重宗曾经向其侄儿板仓重矩透露了出兵计划,而且极其具体地记录下了计划的内容,决定派“主将一人,副将十人”,“知行一万石征发一骑和步兵三至五人”。由此可以相当清楚地看出其中内幕情况。
  
   第二次
   同年冬。春秋中文社区http://bbs.cqzg.cn

海盗出生地水军都督周鹤芝,要求与其有旧交的萨摩藩主岛津氏派遣援兵。据说萨摩藩答应以第二年四月为期,借兵三万。(另,有人认为第一次派求援使来的崔芝和这位周鹤芝是异人异名,也有人认可是异名同人。)
  
   第三次
   正保三年(顺治三年)(1664年)三月。春秋中文社区http://bbs.cqzg.cn
   周鹤芝根据前一年与萨摩藩的约定,准备派遣参谋林斋舞把计划付诸实现。但找到副将黄斌卿的反对,据说未能实现。
  
   第四次
   同年九月。
   (也就是上述郑芝龙的乞师。)
   第五次
   正保四年(顺治四年)(1647年)二月。
  
   周鹤芝遭到黄斌卿的反对,一度放弃了向萨摩乞师的念头,这次又要求派援兵。但这时福州已经失陷,唐王也被捕,萨摩藩尽管与周鹤芝之间有“父子之义”,但其救明的意志已经减退,因而不了了之。
   第六次
   同年三月。春秋中文社区http://bbs.cqzg.cn
   看来周鹤芝向日本乞师最为热心。他一义子林皋为使者,随同安昌王于这一年再次向日本乞师。但据说不得要领而还。
  
   第七次
   同年六月。
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   安昌王曾作为第六次求援使去过日本。这次他借同御史冯京第及黄斌卿的弟弟黄孝卿,又来日乞师。但据说黄孝卿耽溺于长崎的妓女,把乞师之意忘在脑后。由此可以看出,明朝遗臣方面也开始出现了颓废的萌芽。
  
   第八次春秋中文社区http://bbs.cqzg.cn
   庆安元年(顺治五年)(1648年)。
   (即上述郑成功的乞师。)
  
   第九次
   庆安二年(顺治六年)(1649年)十月。
  
   冯京第偕同黄宗羲去日本乞师。从《海东逸史》来看,与第六次的记述(《日本乞师记》)、第七次的记述(《海东逸史》)同样都记为“不得要领而还”,大概是基本上未予受理,稀里糊涂地回去了。
   第十次
   同年冬。
   据说舟山群岛的鲁王处任职的御史俞图南来岛了日本。汪光复的《明季续闻》仅作了这样的记载,详情不明。但可想而知也是为了乞师。
  
   第十一次
   同年十一月。在鲁王处任职的将军阮美去日本乞师。但其背后有*僧捣鬼,表明乞师情况正走向穷途末路。
  
   第十二次
   万治元年(顺治十五年)(1658年)六月。
   (即上述郑成功的乞师。对他来说是第二次乞师。)
  
   第十三次
   同年。
  
   郑氏家族郑泰的请援。《外藩通书》在记载《郑经呈长崎奉行书》的后面,附有近藤守重的按语:“郑泰于永历十三年(明永明王的年号)(清顺治十五年)向日本请援。”但按语仅次一行,不知是否属实。
   第十四次
   万治二年(顺治十六年)(1659年)。
  
   朱舜水乞师,朱舜水后来作为水户藩的宾客而收到重视,最后以日本为埋骨之地。他曾经多次去日本,所以关于他的乞师计划,也很难决定其年代。现在根据中村久四郎的说法,把他最后去日本的年代(也就是最后没有回国那次)看作是乞师的年代,因而就以万治二年为期了。
  
   第十五次
   万治三年(顺治十七年)(1660年)七月。
   (上述郑成功部将张光启的借兵。)
  
   第十六次
   贞享三年(康熙二十五年)(1686年)七月。
  
   这时候三藩之乱已经平定,占据台湾的郑氏家族已经投降,清王朝的基础已经十分巩固。但还是有一个名叫张斐的明人来到长崎,声称:“闻水户候甚重道义,为得其助,以谋恢复而来。”到了这个时候仍然有人不舍复兴明室之志,确实令人惊愕。这是所能知道的最后一次乞师了。
看了这个资料不知兄台您还能信誓当当的给乔某科普日本没有派送物资吗?
但是京都所司代板仓重宗曾经向其侄儿板仓重矩透露了出兵计划,而且极其具体地记录下了计划的内容,决定派“主将一人,副将十人”,“知行一万石征发一骑和步兵三至五人”。这段话又说明了什么?说明日本没派兵吗?
想当年鬼子、棒子、猴子虽在五服外,到是同文同种。
探讨探讨钓鱼岛不好吗。